三宅義信氏“電撃復帰”のワケ…次世代へ喚起「自分たちが…と」

[ 2014年7月25日 10:00 ]

74歳となった今もトレーニングを続ける東京国際大・三宅義信監督

 2020年の東京五輪開幕まで、24日であと6年となった。前回の1964年大会で日本人金メダル第1号に輝いた“レジェンド”も再び競技に舞い戻り、次世代の育成にも励むなど、今なお元気に活躍中。東京国際大ウエイトリフティング部の監督を務める三宅義信さん(74)は、自身の経験と照らし合わせながら6年後の大舞台を目指す次代のアスリートたちにメッセージを送った。

 金メダリストは50年たってもやはり異能の人だった。革製のベルトを腰に巻き、バーベルに向き合う。70歳を超えてなお、そのたくましい両腕は40キロ以上の重りを何度も頭上に差し上げた。「なんでこんな重いんだ。恐れ入ったな」「もうこっちは74歳だぞ」。まだ真新しい東京国際大の練習場。文句を言いながらも三宅さんの表情は実にイキイキとしていた。

 64年の英雄は5月の東京都マスターズで突然の“現役復帰”を果たした。2度目の東京五輪が決まったおかげで血が騒いだ、というだけではない。「70歳を超えてる人間でもこれだけ頑張っている。それを見た子供たちが、次の五輪は自分たちがしっかり成功させなきゃと心してもらいたい」。来月は全日本マスターズ(15~17日、兵庫県)にも出場予定。目を見張るパワーは2つの東京五輪をつなぐ活力となるに違いない。

 今から50年前、まだドーム球場もスカイツリーもなかった東京で行われたスポーツの祭典。初めて日の丸をてっぺんに掲げたのは当時24歳の三宅さんだった。地元五輪での日本選手団金1号。しかし当人の心情は歓喜や安心とはかけ離れたものだった。「自分に与えられた金メダルというハードルをクリアしたというだけのことだった」

 三宅さんにとっての初五輪はその4年前、60年のローマ大会だった。「乾燥して毛穴が開くから疲労回復が日本と違う。スパゲティは口に合わない。試合の段取りも分からなかった」と初めての大舞台は戸惑いの連続で悔しい銀メダル。無念の思いが4年後までの一日一日を無駄なく過ごす覚悟となった。「栄養学も解剖学も呼吸法まで全部勉強した」。比叡山で座禅を組み、滝に打たれることもあった。科学も非科学も取り入れ、4年に一度に懸ける。その取り組みの密度の濃さは「1460日の行」と振り返るほどのものだった。
 
 ≪三宅義信氏の64年大会VTR≫フェザー級は大会3日目の10月12日、渋谷公会堂で行われた。プレス、スナッチともに122.5キロの五輪新記録を樹立。ジャークも1回目に145キロを挙げて計390キロの世界記録をマーク。合計9回の試技に全て成功し計397.5キロと自身25度目の世界新を樹立して圧勝した。

 ◆三宅 義信(みやけ・よしのぶ)1939年(昭14)11月24日生まれ、宮城県村田町出身の74歳。県立大河原高2年から重量挙げを始める。法大在学中に60年ローマ五輪で銀メダル、64年東京、68年メキシコシティー五輪で金メダルを獲得。世界選手権6連覇を達成。引退後は自衛隊体育学校長などを務め、現在は東京国際大の監督。弟はメキシコシティー五輪銅メダルの義行氏、めいは12年ロンドン五輪銀メダルの宏実。

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