真央、天国の母へ最高の恩返し ラスト五輪で自己新出した

[ 2014年2月22日 05:30 ]

フリーの演技を終えた浅田真央の目からが涙がこぼれる

ソチ五輪フィギュアスケート女子フリー

(2月20日 アイスベルク・パレス)
 最高の演技に、真央の涙に、列島が泣いた。20日の女子フリーで浅田真央(23=中京大)がトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を決めて、自己ベストの142・71点をマーク。フリー3位でSP16位から巻き返し、合計198・22点で6位に入った。最後の五輪で見せた4分間の魂の演技は、11年12月9日に肝硬変で亡くなった最愛の母・匡子(きょうこ)さん(享年48)へ、娘からの最高の恩返しだった。今季限りでの引退を表明している浅田は世界選手権(3月26~30日、さいたまスーパーアリーナ)でファンに別れを告げる。

 一つ一つの技に、リンクに描かれるスケートの軌跡に、万感の思いを込めた。冒頭、今季初めてトリプルアクセルをクリーンに決めた浅田が、最後のスパイラルからフィニッシュに向かう。思いっきり天を見上げて4分間の演技を締めた。涙があふれ出た。おえつが止まらない。リンク中央に戻り歓声に応えると、ようやく笑みが広がった。

 「全て出すことができた。メダルという形で結果を残すことができなかったけど、あと残すのは自分の演技と思っていた。最高の演技ができた。(自分の演技で)ベスト5には入ると思います」

 19日のSPで16位。悩み寝付けず、予定の時間に起きられなかった。少し遅れた朝の練習でもジャンプが絶不調。「大丈夫かな…」。自分との闘いの中、思った。悔いの残るまま終わっていいのか。応援してくれる人に笑顔を見せたい。「最後は覚悟を決めて“よし”って思って」。ほぼ完璧に舞うと、涙とともに感謝の気持ちがあふれた。

 「今まで支えてくれた方々に、最高の演技で恩返しすることができた」

 支えてくれた、たくさんの人。一人は間違いなく母・匡子さんだ。スケート靴を履いたのは姉・舞さんが7歳、浅田が5歳の時。2人にバレエをさせたかった母が足首を鍛えるためにスケートを選んだことが、スタートだった。スケートにのめり込む浅田に母は聞いた。「続けたい?」。娘は返した。「うん!」。ここから匡子さんは浅田の最初のコーチになった。

 競技歴のない匡子さんは、娘を強くするために一人で学んだ。トレーニングの本を購入し、98年長野五輪を制したリピンスキーの演技を映像で見て、夜中まで研究した。「素人が何をやっているんだ」という声にも屈しなかった。母と舞さんと浅田は、周囲から「三つ子みたい」と言われるほど、いつも一緒だった。

 舞さんの方が、浅田よりも天才肌だった。匡子さんは舞さんに目を向ける時間が多く、浅田は「なんで真央を見てくれないの?」といつも思っていた。母に褒められたいという気持ちを原動力に、小学6年生で初めてトリプルアクセルを跳び、活躍するようになった。

 06年トリノ。05年のGPファイナルでスルツカヤ、荒川静香らを撃破して世界一に輝いた浅田だが、年齢制限にわずか87日足りず、夢舞台に立つ資格はなかった。母に冗談で言った。「なんでもっと早く産んでくれなかったの~」。本当は少しだけ出たかった。視線は自然と4年後に向いた。

 10年バンクーバー。合計3度のトリプルアクセルを決めたが、勝ったのは同い年のライバル、キム・ヨナ。フリーでジャンプのミスがあった浅田は泣いた。その夜、悔しさを引きずる娘に母は言った。「銀メダルって凄いんだよ」。その言葉があったから、浅田は結果を受け入れることができた。

 「バンクーバーは悔しい気持ちで終わったけど、あとで良かったかなと思えた。今回も良かったなって気持ちは、どんどん大きくなるんじゃないかな」

 浅田は知っているだろうか。匡子さんが抱いていた願いを。「金メダルは獲ってほしいけど、それより、みんなに愛されるスケーターになってほしいのよ」――。目指した金メダルにも表彰台にも、届かなかった。「(次の4年は)想像できない」と言う浅田は、最後の夢舞台を6位で終えた。きっと、五輪の女神は嫉妬した。母に、みんなに、深く深く愛されていたから。その事実が、浅田真央という不世出のスケーターにとって、黄金に輝く勲章だった。

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