41歳254日の新伝説 葛西7度目五輪で初個人表彰台

[ 2014年2月17日 05:30 ]

2回目の得点を確認する(左から)清水、葛西、伊東、竹内

ソチ五輪ジャンプ男子ラージヒル

(2月15日 ルスキエゴルキ・センター)
 ジャンプ界の“レジェンド”が五輪にも伝説を刻んだ。冬季歴代最多の7度目の出場となる葛西紀明(土屋ホーム)が15日の男子ラージヒルで、41歳254日で銀メダルを獲得し、冬季五輪の日本人最年長メダリストとなった。カミル・ストッホ(26=ポーランド)にわずか1・3点、距離にして72センチ届かなかったが、94年リレハンメル大会の団体銀以来20年ぶり、個人では初のメダルを獲得。団体のメンバーから外れた98年長野五輪での悔しさを昇華させ、日本ジャンプ陣にとっても同五輪以来のメダルをもたらした。

 伝説が生まれた日。葛西はその中心にいなかった。98年2月の長野、日本中が沸いたジャンプ団体金メダル。五輪直前のケガでメンバーから漏れ、リフト乗り場の屋根から試合を眺めていた。「見ているより飛んでた方がいい」。列島の興奮から一人蚊帳の外。悔しさをにじませた言葉はまぎれもなく本心だった。

 葛西の姉・浜屋紀子さん(44)はその前日にかかってきた弟からの電話が忘れられない。「今メンバーを選んでいる。俺は選ばれるかなあ」。不安に震えた声は、次の電話で「ダメだったあ」と涙声に変 わっていた。紀子さんはこう振り返る。「長野があるから今も目標を持ち続けられるんだと思う。あの時に金メダルだったらどうだったか」。痛恨の思いが今の葛西の出発地点だった。

 伝説が生まれた日。14年2月のソチ、葛西はその中心にいた。6日前のノーマルヒルで腰を痛め、前日の公式練習は回避せざるを得なかった。この日は強風で試技がなくなり、2日ぶりのジャンプがいきなりの本番になった。心臓は「バクバク」。だが、その緊張感を乗り越えた。テークオフとともに板を大きく横に広げる。両手は細かく動かして飛行姿勢を制御。V字というよりはH字に近い。今も20代の頃と変わらず立ち幅跳びで3メートル以上を跳ぶ脚力が板のふらつきを抑える。高い身体能力とバランス感覚をベースに据えたいつものジャンプ。139メートル。まずは2位につけた。

 ソチ入り後は日本選手団の主将として開会式や他競技の応援に出かけた。以前はプレッシャーにつぶされることもあったが、それが精神的にもプラスに働いた。最後の仕上げにスタート直前にニヤリと笑顔。「上半身に力が入っているのが分かったので、力を抜くためにやった」。経験豊富なベテランは緊張状態の中でも冷静だった。

 2回目も133・5メートルを飛んでトップに立った。最後はストッホを残すのみ。「お願い!1位!」。伊東、竹内、清水がすぐ後ろで声を上げていた。長野五輪を見てジャンプを始めたような一回り以上若い選手が葛西の勝利を心から願っていた。葛西自身も「本当に祈る気持ち」で電光掲示板を見つめた。結果は銀メダル。最初の表情には悔しさが先に出たが、すぐに充実感も湧き上がってきた。7度目の五輪で初めて手にした個人メダル。「自分の力で獲ったメダルなので20年前とは比べものにならないぐらいうれしい」。竹内から受け取った日の丸を広げると笑顔がはじけた。

 「長野五輪後に日本はルール変更への対応などで低迷した。自分も一時期はもう海外勢にかなわないんじゃないかと諦めそうになった」。だが、変化を恐れずに進化を続け、世界の最前線に戻ってきた。板を広げないクラシカルスタイルの時代から飛び続けてきた41歳。今季も「海外の強い選手は短いのを使っている」と板を4センチ短い2メートル50に変えて操作性を向上、約2キロの減量もした。今もまだ進化の途中だ。

 W杯出場は400戦を超えて歴代最多、先月の試合で最年長優勝記録も打ち立てた。前傾の深い空中姿勢ゆえに「カミカゼ」だった異名は、いつしか「レジェンド」に変わった。「本当に飛んでいることが楽しく、勝つことが快感に感じる」。試合に勝つことはできなかったが、不運を呪った過去の自分には勝った。長野の悔しさがあったからこそきっとソチの歓喜もあった。フラワーセレモニーでは、表彰台の上で気持ちよさそうにぴょんと跳んだ。それは恩讐(おんしゅう)を超えた先にたどり着いた最高のジャンプだった。

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