復興への道「ここからがスタート」羽生、被災地に“金の輝き”届けた

[ 2014年2月16日 05:30 ]

金メダルを手に笑顔の羽生

 日本の金メダル1号は氷上のプリンスだ。14日の男子フリーで羽生結弦(ゆづる、19=ANA)が、ジャンプでミスがありながらトップの178・64点をマーク。合計280・09点でフィギュア日本男子初の金メダルを獲得した。19歳69日での戴冠は、18歳202日で48年サンモリッツ五輪を制したリチャード・バットン(米国)に次ぐ若さで、男子史上2人目の10代王者になった。金字塔を打ち立てた宮城・仙台出身のニューヒーローが、東日本大震災の被災地に黄金の輝きを届けた。

 死力を尽くしたから、スケートの女神が優しくほほ笑んでくれた。演技を終えた羽生が10秒以上、立ち上がれない。少し悔しそうに、でも、どこか誇らしげに大歓声に応えた。不完全燃焼な自身の演技後、一騎打ちになっていたチャンの演技を映像で見た。重圧に負けた世界王者は、羽生を上回れない。戴冠が決まった瞬間、口をついた「Oh my God!」。19歳のニューヒーローが、日本フィギュア界に金字塔を打ち立てた。

 「ホントにビックリしている。終わった後は金メダルは駄目かなと思った。五輪で金メダルを獲って言うのも何ですけど、ちょっと悔しい」

 前日(13日)のSPで101・45点の世界最高得点をマーク。ロケットスタートを決めたが、緊張から一睡もできずにフリーを迎えていた。冒頭の4回転サルコーで転倒すると、ほとんどミスをしない3回転フリップでも転び、スピード感も欠けた。「全然、動かなかった。ただ、一生懸命やろう、どんな状況でも全力を尽くそうと思った」。後半はトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を決めるなど持ち直し、日本男子初の快挙につなげた。

 「フィギュア男子シングルの金メダリストは1人かもしれないけど、日本で世界で応援してくれるみなさんの思いも持って表彰台に立てた。結果として優勝できたってことは、日本人として凄く誇りに思う」

 宮城県仙台市出身。大勢の人々の運命を変えた、11年3月11日。東日本大震災で羽生の運命もまた、変わった。仙台市内のアイスリンク仙台で練習中、世界の終わりのような激しい揺れに襲われた。氷はひび割れ、壁が崩れ落ちる。何が起きているか理解できず、スケート靴を履いたまま、四つんばいで外に逃げた。市内の自宅は全壊。避難所生活の4日間は、2畳ほどのスペースに、毛布1枚で家族4人で雑魚寝した。

 「震災の後、スケートができなくて、やめようと思って。生活するのが精いっぱいでギリギリ。あの時のことは、あまり振り返りたくない」

 拠点のリンクは閉鎖。震災から10日後、東神奈川のリンクで練習を再開し、その後は全国各地で復興支援などのアイスショーに参加した。ショーで滑ることは練習代わりだったが、胸には葛藤があった。「僕が被災者だから、アイスショーに呼んでもらっているんじゃないか」――。被災者というフィルターを外し、一人のアスリートとして見てほしかった。

 震災後、数カ月で届いたファンレターは500通以上。津波にのまれたファンがいたことも知っている羽生は、一通一通に目を通した。そして葛藤は消える。「支えてもらっていることに気づいた」。12年3月の世界選手権で銅メダル。今季フリー曲はその時と同じ「ロミオとジュリエット」だ。スケートができる喜び、支えてくれた人への感謝を表すため、震災以降、羽生は演技を終えると深々とお辞儀するようになった。それは夢舞台でも同じだった。

 12年5月、ブライアン・オーサー・コーチに師事するため、拠点を仙台からカナダのトロントに移した。「震災が起きたところを離れて、こんなので良かったのかなって思ったこともある」。被災地のことは忘れない。13年3月、カナダのロンドンで開催された世界選手権直前。現地入りした羽生は、震災発生時の日本時間午後2時46分に合わせ黙とうした。時差があり現地時間は午前1時46分だったが、目覚まし時計をセットして起き、そして静かに祈った。

 メダリスト会見では、あまり笑わなかった。被災地のことを考えると、どんな表情をしていいのか分からなかった。「僕一人が頑張っても、復興に直接、手助けになるわけじゃない。無力感も感じる。何もできていないって感じる。僕は何ができたのかな」。そして、こう続けた。「金メダリストになれたからこそ、ここからがスタートだと思う。金メダルを獲ったことで活気づいてくれたらうれしい」。君は日本の、被災地の歓喜を見たか。決して無力なんかじゃない。まぶしい黄金の輝きは、復興への道のりを明るく照らした。

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