“東洋の魔女”主将 中村昌枝さん急死 聖火ランナー意欲も

[ 2013年10月4日 06:00 ]

東京五輪バレーボール女子で、金メダルを獲得し喜ぶ河西昌枝主将(左)ら

 1964年東京五輪のバレーボール女子で金メダルを獲得し、“東洋の魔女”と呼ばれた日本代表で主将を務めた中村昌枝(なかむら・まさえ)さん=旧姓河西(かさい)=が3日午前0時半、脳出血のため都内の病院で死去した。80歳だった。葬儀は近親者で行う。2020年東京五輪の招致活動にも参加した中村さんは、7年後の聖火ランナーにも意欲を示していたが、大役を務めることはかなわなかった。

 64年東京五輪で日本中に歓喜を運んだ“東洋の魔女”の司令塔が、20年東京五輪開催が決まってから1カ月足らずで、この世を去った。3日午前0時半、中村さんが死去。親族によると、ここ数カ月は腰椎骨折のため療養、リハビリを行っていたが、1日夕方に脳出血を発症。そのまま帰らぬ人になった。

 中村さんは54年の日紡貝塚発足に合わせ、日紡足利から移籍。9人制から6人制に切り替えて世界を目指すチームの方針で、アタッカーからセッターに転向した。62年世界選手権で金メダルを獲得した後、現役引退を考えた。29歳で、当時の結婚適齢期を過ぎていたから。だが、バレーボールが正式種目になった64年東京五輪への周囲の期待は大きく、「みんなでやるんだったら続ける」とチームメートの意見をとりまとめ、コートに立つ道を選んだ。

 東京五輪では主将としてチームをまとめたが、夢舞台までの道のりは過酷だった。日本代表も日紡貝塚も、監督は“鬼”と言われた故大松博文氏。仕事を終えて午後4時半にコートに集まると、同6時に指揮官が来るまでは中村さんがボールを打つなど、コーチも兼任していた。猛練習は午前1時を過ぎても終わらなかった。日本の必殺技となった回転レシーブもこの練習量があったからこそだ。五輪直前の8月に父が死去したが、合宿を離れたのは1日だけ。悲しみを胸に秘めて、世界の頂点を目指した。ソ連(当時)との決勝はテレビ視聴率が66・8%に達し、スポーツ中継では今なお最高記録だ。

 五輪翌年の65年に佐藤栄作首相(当時)の仲立ちで元自衛官と結婚。引退後はママさんバレーの普及などに尽力し、女子日本代表の試合はほぼ足を運んだ。04年アテネ五輪は女子日本代表の団長として後輩たちを見守った。代表練習では選手に失礼と決して椅子に座らなかったという。アテネ五輪の開会式も71歳の高齢を心配して周囲がテレビ観戦を勧めたが、出番待ちを含め10時間以上も立ちっぱなしに耐えた。

 20年東京五輪の招致活動にも参加。9月7日の国際オリンピック委員会総会で20年五輪開催地が東京に決まった際には、「今度はオリンピックをこの目で見て、最大の声援を送るつもりです」とコメントを寄せていた。日本協会の荒木田裕子・強化事業本部長代理によると、中村さんは「聖火ランナーを務めたい」と話していたという。楽しみにしていた7年後の東京五輪を見ることなく、バレー愛に満ちた人生の幕を下ろした。

 ◆中村 昌枝(なかむら・まさえ)1933年(昭8)7月14日、山梨県中巨摩郡(現南アルプス市)出身。旧姓・河西。54年の日紡貝塚発足に合わせ、日紡足利から移籍。62年世界選手権で金メダルを獲得すると、五輪正式種目となった64年東京五輪も主将で金メダルに導いた。現役引退後はママさんバレーなどの普及に尽力。03年に女子強化副委員長に就任し、04年アテネ五輪ではバレー女子日本代表の団長を務めた。08年には世界バレーボール殿堂入り。現役時のサイズは1メートル74、63キロ。

 ▼東洋の魔女 日紡貝塚が変化球サーブを武器に61年の欧州遠征でソ連に6戦全勝など22連勝し“東洋の魔女”という異名が生まれる。代表12人中10人が日紡貝塚の選手だった62年世界選手権も金メダル。64年東京五輪も12人中10人が日紡貝塚の選手で占められソ連との最終戦の解説をしていた米国のテレビ局のコメンテーターが日本の攻撃のたびに「オリエンタル・ウィッチ」と繰り返した。

 ▼64年東京五輪のバレーボール 男女ともにこの大会から正式種目。6チームの1回戦総当たりで行われ、日本女子は米国、ルーマニア、韓国、ポーランドに4連勝し、最終戦でソ連(当時)と全勝対決。2セット連取し第3セット14―9とマッチポイントを握るが4連続失点。最後はソ連選手のオーバーネットの反則で金メダルが決まった。

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