偉業達成5日後の決断…“最強大関”魁皇引退

[ 2011年7月20日 06:00 ]

土俵下に落ちた魁皇の横に1048の応援幕が…

大相撲名古屋場所10日目

(7月19日 愛知県体育館)
 大相撲の大関・魁皇(38=友綱部屋)が23年余りの現役生活にピリオドを打った。名古屋場所10日目の19日、琴欧洲戦で敗れて7敗目を喫した大関は、取組後に引退を決断した。若貴兄弟、曙らと同じ88年春場所にデビュー。怪力を生かした右からの上手投げを武器に大関を10年以上も務め、名古屋場所5日目には千代の富士の持つ最多勝記録(通算1045勝)を更新した。しかし、偉業達成から5日後に電撃引退。記憶にも記録にも残る名大関が土俵に別れを告げた。
【星取表】

 699回目の敗戦に悔しさはなかった。取組を終えた魁皇の表情には解放感に近い笑みが戻っていた。「重要な話を(師匠と)するのですか」との問いに、「フフフ」とはにかんだ。

 午後6時46分、名古屋市緑区の友綱部屋宿舎に戻った魁皇は師匠の友綱親方(元関脇・魁輝)に「引退」の意向を打ち明けた。師弟の話し合いは10分で終了。愛弟子に代わって引退を発表した師匠は「よくやった、と言葉をかけた。私は早いうちから、(引退は)いつでも良かった」と話した。魁皇はきょう20日に相撲協会に引退届を提出。今後は年寄「浅香山」を襲名し、友綱部屋付きの親方として後進の指導に当たる予定だ。

 3勝6敗で迎えた琴欧洲戦。花道の奥にはかつての弟弟子である、元十両・魁道の田中康弘氏、元幕内・戦闘竜(現格闘家)の姿があった。2人は「まだやれる」と奇跡を祈ったが、思いは届かなかった。琴欧洲の攻めに防戦一方となり、最後は崩れるように土俵下に転落。魁皇コールは一瞬にして静まり返った。

 ここまで“引き際”を探していた。今場所負け越しても秋場所は大関として土俵に上がることができたが、親しい関係者には「いつ辞めてもいい」と漏らしていた。千代の富士の持つ歴代最多勝記録を塗り替えても、今場所は取組後に連夜、奈良県まで治療に出向き、深夜1時に宿舎に戻る生活を続けた。しかし、千秋楽で39歳を迎える肉体は限界に達していた。

 1年前、野球賭博で琴光喜が解雇され、日本人大関が魁皇1人となった。協会や周囲から現役続行を懇願されたが、琴奨菊の成長も引退の“要因”となった。日本人大関誕生の可能性が高まり、地元福岡の後輩に後を託す決意を固めたようだ。

 魁皇は午後8時25分、コメントを発表した。

 「やっと終わったな。長かったと思う。振り返れば、いろんな人に支えられ、応援してもらった。こういう人たちがいたからここまでやれた。23年間の相撲人生は長い。簡単には振り返られないけど、全ての人に感謝したい。言葉にできないほど感謝でいっぱい。魁皇としての人生は最高でした」

 不屈の闘志で幾多の危機を乗り越え、数々の記録を塗り替えた「名大関」の引退。現役の関取では昭和の土俵を知る最後の男が姿を消し、大相撲の一つの時代が終えんを迎えることになった。

 ◆魁皇 博之(かいおう・ひろゆき)本名・古賀博之。1972年(昭47)7月24日、福岡県直方市生まれの38歳。88年3月に友綱部屋に入門し、春場所で若貴兄弟、曙らと初土俵を踏む。93年夏場所で新入幕。小結だった00年夏場所で初優勝し、同年秋場所で大関に昇進した。怪力を生かした左四つ右上手の型を持ち、歴代記録を次々と更新した。幕内優勝は5回。金星6個。家族は元プロレスラーの充子夫人。血液型A。1メートル85、154キロ。

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