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【コラム】西部謙司

審判と権威

[ 2018年11月28日 01:00 ]

<清水・神戸>乱闘騒ぎとなり、清水ベンチに流れ込む神戸イレブン。乱闘騒ぎで試合終了は後半64分。(鳥原有華・静岡支局)
Photo By スポニチ

 J1第33節、清水エスパルス対ヴィッセル神戸は大荒れの試合となった。3−3の激戦だったのだが、ウェリントンの退場がらみで乱闘さわぎになっている。主審の判定とゲームコントロールに不満を持ったファンも多かったようだ。

 主審が大きなミスジャッジをすると大事になるが、選手が大きなミスをしても通常何も起こらない。不利な判定をされたファンにとって、レフェリーは「敵」になる。しかし、選手が決定的なミスをしても「敵」とは認識されない。応援しているチームの選手がミスをしただけの話である。ただ、審判のミスも選手のミスも人間のエラーという点では同じだ。

 審判は公平である。意図的に片方のチームに有利な判定をしているなら、それは買収されていることになるから重大問題になるが、普通それはないと考えていい。揉めてしまう原因がジャッジにあるなら、それは不公平というよりもたんに下手だということだ。念のためつけ加えると、筆者は日本の審判がことさら下手だとは思わない。人によってもちろん差はあるとはいえ、ヨーロッパにも南米にも下手な審判はいくらでもいる。

 良い審判には強さが必要だ。毅然として判定を下さなければならない。また、第三者としてジャッジを一任している以上、すべての選手は審判を尊重しなければならない。ここまではサッカーの基本である。だから、ルール上、審判への抗議や異議はいっさい許されていない。サッカーの審判は権威を守られている存在といえる。

 一方、この権威づけされた存在であることが、審判への不満と憎悪を募らせる一因になっている。どうしても納得できないジャッジ、命がけでプレーしている選手にとって耐えられないほど低レベルの判定も、ときにはある。そんなときでも審判は毅然としていなければいけないと教育されているから、選手やファンからすれば「ロクな判定もしないのに、やたら威張っている」という見え方になってしまう。感情がエスカレートすると、ときに収拾がつかない事態にも発展してしまう。

 たぶん多くの選手は勘違いをしている。もしかしたら審判の中にもそういう人がいるかもしれないのだが、審判には権威などないのだ。審判の権威は守られているだけのものであって、審判自身が偉いわけでもなければ、ミスをしないわけでもない。いわば作られた権威にすぎない。そういう存在を作っておかないと試合にならないからだ。誰もルールを守らず、誰の言うことも聞かず、やりたい放題ではサッカーにならない。つまり、選手は自らを守り、サッカーを成立させるために、審判という仮の絶対権威を作って容認しているわけだ。審判は選手によって守られた存在であり、それが選手のマナーでありプライドでもある。

 最近はJリーグでも判定の是非をオープンに議論するようになっている。ミスはミスとしてどんどん認めてしまえばいい。それによって権威が落ちることはない。あまりに酷いと信用はされなくなるかもしれないが、審判の権威を守るのは審判ではなく選手だからだ。下手だろうが何だろうが、審判の権威は選手が守るべきものなのだ。(西部謙司=スポーツライター)

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