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【コラム】金子達仁

世にも珍しい 広島・森保監督の辞任劇

[ 2017年7月7日 14:00 ]

広島の監督を辞任した森保一氏
Photo By スポニチ

 この世にプロ・サッカーなるものが誕生してから現在にいたるまで、果たして何人のプロ監督が生まれ、存在してきたかは知らないが、おそらく、割合でいったら1%、いや、0・1%もないのではないか。少なくとも、わたしがパッと思いつくのはアレックス・ファーガソン一人だけである。

 99・9%の監督は、同じ末路をたどった。つまり、クビを切られた。

 バルセロナのすべてをつくったといっても過言ではないヨハン・クライフでさえ、例外ではなかった。あれは96年の春だったか。すべてのタイトルの可能性が消えた段階から、カンプ・ノウでは白いハンカチが乱舞するようになった。そこに込められた意味はひとつしかない。

 「出て行け」

 すべてだった、とは思わない。それでも、カンプ・ノウを埋めた観客の明らかに過半数が、チームをつくり、育て、成熟させた恩人に対して白いハンカチを振っていた。日本人の感覚からすると「なんと薄情な」としか思えなかった記憶があるが、よくも悪くも、それが欧州の常識だということもわかっていた。

 監督という立場の人間に、自ら身を引く、という選択肢が与えられることは、いまも昔も、まず、ない。

 だから、4日に辞任が発表された広島の森保監督のケースは、世界的にも歴史的にも、極めて珍しいと言っていい。

 そもそも、決して資金的には潤沢とは言い難い広島にあれほどの内容と結果をもたらした監督が、かくも長い間、チームにとどまり続けたことがありえない。これが欧州であれば、間違いなくビッグクラブが札束で横っ面をひっぱたいて強奪しているか、あるいは監督の側から売り込みにいっているだろう。モウリーニョもクロップも、そうやってキャリアを積み重ねていった。

 だが、森保監督は広島にとどまり続け、しかも、最後は壊滅的な結果しか残せなかったにもかかわらず、自ら身を引くことを許された。それどころか、織田社長からは強い慰留までなされたという。

 古今東西、こんな監督がいただろうか。

 義理や人情といった、欧州のサッカー界がずいぶんと昔に捨て去ったものがいまだに残る日本ならでは、という側面はもちろんある。だが、そうした面を差し引いても、森保一という監督が希(け)有(う)な存在だった、ということだろう。

 これで、彼はフリーになった。

 おそらくは近い将来、日本のサッカー史上初めての“監督争奪戦”が起きる。日本サッカー協会が名乗りをあげる可能性だってある。

 美しいサッカーで結果を残していれば、こういう辞め方が許されて、こういう未来が待っている――森保監督の今後の身の振り方が、指導者を目指す人たちにとってのひとつの指針になればいいのだが。(金子達仁氏=スポーツライター)

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