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【コラム】海外通信員

メッシ代表で輝けず サッカー大国に生まれた宿命

[ 2015年7月9日 05:30 ]

優勝カップの前をうなだれながら歩くアルゼンチン代表FWメッシ(AP)
Photo By AP

 7月4日にチリの優勝で幕を閉じたコパ・アメリカ。決勝で敗れたアルゼンチンは、準決勝でパラグアイに6-1という大勝利をおさめて絶好調だっただけに、延長戦を含む120分の間に1点も取れず、PK戦では2人ものキッカーが失敗するという不甲斐なさに国全体が落胆ムードに包まれた。

 昨年のワールドカップでは、同じ準優勝でも人々の反応は全く違っていた。とにかくNo.1でなければ気がすまず、「2位は祝福しないもの」という概念があるアルゼンチンにおいて、ワールドカップを通してチームが見せた闘志に国民が感銘を受け、決勝戦でドイツに敗れたあとも大勢の人が街中に繰り出して準優勝を祝うという、アルゼンチンとしては前代未聞の現象が起きた。選手たち、特に影のキャプテンとしてチームを引っ張ったマスチェラーノに対する称賛の声は国中から巻き起こり、華やかなストライカーの活躍による優勝ではなく、地味な守備的MFが汗を流して準優勝に貢献した姿が称えられるという、この国では通常考えられない展開となっていた。

 ところが今回は、いつものアルゼンチンらしさが戻ってきてしまった。決勝で勝てなかった途端、一斉に代表チームに対する批判が飛び交ったからだ。

 メディアはテレビやラジオを通して、ファンはSNS上で、マルティーノ監督のチームを容赦なく酷評。そして案の定、槍玉の先に挙がったのは、大会を通してPKによる1得点に終わったメッシだった。もうすっかり過去のものとして忘れられていた(と思われた)「代表ではバルセロナと同じプレーができない」という批判が甦り、昨シーズンのバルセロナでの華麗なパフォーマンスの前にしばらくの間身を潜めていた「アンチ・メッシ」たちが、この時を待っていたとばかりにバッシングを始めたのである。

 その代表格がスポーツ紙OLEのレオ・ファリネッラ編集長で、メッシについて「世界一のプレーヤーだか何だか知らないが、我々(アルゼンチン)が彼を必要としている時には何もできない」とばっさり切り捨てた。さらに、メッシのコパ・アメリカでのパフォーマンスについては「indignante」(『とんでもない、けしからぬ』の意)という冷酷な言葉で表現。「チームメイトたちが必死にプレーしているのに、ピッチの中を歩くだけでゲームから消えてしまうことはできない」と言い、代表のキャプテンであり10番を背負うメッシをとことんこき下ろした。

 私自身はファリネッラ編集長の意見には賛同していないし、私が知っている代表チームの番記者たちもメッシを擁護している。だが、アルゼンチン全体を見てみると、ファリネッラ編集長と同じようにメッシに憤慨しているサッカーファンは圧倒的多数を占めているのである。

 知り合いのジャーナリストは、「バルセロナと代表チームを同じものとして考えることは間違っている」と前置きしながらも、やはり「でもメッシは、チームが奮起しなければならないときにいつも精気を失ったかのような態度を見せる。それはアルゼンチン人にとって許されないことだ」と言い切る。マラドーナやテベスといった、ピッチ内で最後の最後まで諦めずに全身全霊を尽くすタイプが愛される国で、メッシは「冷めている」と見られる。ワールドカップ予選での活躍以来、完全に忘れられていたはずだった「アルゼンチン国歌を歌わない」という批判も、今回のコパ・アメリカを機に再び聞かれるようになってしまった。

 今、アルゼンチンのメディアは、メッシが「このあとしばらくは代表から遠ざかることになるだろう」と報道している。「アンチ・メッシ」の逆襲がおさまり、メッシの精神的な負担が和らぐまで、プレーさせないほうがいいという周囲の気遣いがあるようだ。

 その一方で、メッシを支援するメディアやファンは「『プレーさせないほうがいい』と言うが、このままではそのうちメッシ自身が母国の人々に愛想をつかすだろう」と、今後を懸念している。自分の国に世界一のプレーヤーがいるという誇りと、そんな選手がいるからこそ最高のプレーができなければ徹底的に酷評するという厳しさ。アルゼンチン人の心に葛藤をもたらすメッシが背負う、過酷な運命。「サッカー大国に生まれた宿命」と言ってしまえばそれまでなのだが。(藤坂ガルシア千鶴=ブエノスアイレス通信員)

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