×

大恩は謝せず…Jリーグをつくった男・木之本興三さんの生き方

[ 2017年1月27日 14:30 ]

1993年2月、Jリーグ日程発表に臨む木之本興三氏(左)。右は川淵チェアマン
Photo By スポニチ

 【鈴木誠治の我田引用】日本サッカーのプロ化に尽力した木之本興三さんが、1月15日に亡くなった。26歳で難病のグッドパスチャー症候群を患い、余命5年と言われて42年。人間の生命力の力強さを証明する素晴らしい生き様に、敬意を表したい。

 木之本さんを最後に取材したのは、2012年だった。やはり難病のバージャー病を発症し、両脚を失っていたが、第一線を退き、表情は穏やかだった。「Jリーグをつくった男」は、プロ化を目指したきっかけを静かに話してくれた。

 木之本さんと、梶原一騎のサッカーアニメ「赤き血のイレブン」のモデルとして知られる永井良和氏は、日本リーグ時代の名門・古河電工のチームメートだった。木之本さんが4歳年上だが、波長が合ったという。何より「プレーヤーとして、光り輝いていた。永井の時代にプロがあったら、カズ、ゴンと並び称される選手だったと思う。僕より若いけど、選手としてリスペクトしていた」と明かした。

 その永井氏が28歳の時、若返りという理由だけで日本代表を外された。永井氏は、やり切れない思いとともに、将来に不安を覚え、大きなショックを受けた。代表通算167試合19得点(Aマッチ69試合9得点)のFWとしての実績は当時、引退後の人生には全く反映されなかった。「サッカー人のステータスを上げ、サッカーで評価される時代にしたい」。永井氏への思いが、木之本さんを動かした。

 木之本さんが26歳で発病した時、妻のおなかには長男がいた。死にたい、離婚したい…。医師に「殺してくれ!」と言うほど生きる希望を失った木之本さんを支えたのが家族ならば、「かけがえのない友人」と言う永井氏は、プロ化という生きがいをくれた人だ。

 大恩は謝せず(大恩不言謝)

 この中国のことわざは、恩を受けたら口で感謝するのでなく、一生、心に置いておけというほどの意味だそうだ。木之本さんは永井氏が日本代表を外れたとき、「自分ではい上がってこい」と言ったという。「頑張れとは、ひと言も言わなかった」。精神的に病むほど悩んだ友人をあえて、突き放した。

 木之本さんにとって、永井氏の存在が「大恩」に当たるかどうか、わからない。ただ、人生に光をくれた大切な人だったのは事実だろう。これをきっかけに、木之本さんはプロ化への思いを膨らませ、永井氏はMFにポジションを変えて復活し、古河電工を日本リーグ優勝に導いた。静かに、遠くから見守っていた復活を、木之本さんは「本当にうれしかった」と振り返った。

 作家の菊池寛氏には、「大恩を謝せず」に想を得た「恩を返す話」という小説がある。その解説(吉川英治氏の名を借りて自分で書いたらしい)にこんな一文がある。

 恩返しを考えるということは、恩人の不幸を待っている気持だと云う皮肉

 小説は、佐原惣八郎への恩返しに執念を燃やした神山甚兵衛が結局、切腹する惣八郎を介錯することになる。恩返しは、待ち望んでするものではないというお話だ。

 木之本さんはその後、永井氏が引退するとき、退社するとき、指導者を目指したときも、監督になったときも、常に相談に乗って道筋をつけた。そして、遠くから見守った。「僕の人生の岐路で必ず動いてくれた」と言う永井氏に対する木之本さんの接し方はきっと、恩返しの機会に喜々とするのではなく、「あとは自分ではい上がってこい」だったように思う。難病と闘った自分のように…。

 永井氏は「かけがえのない恩人に出会えたことは、本当に幸せだと思う」と話した。自分の恩人であるはずの人に、恩人と思われる。木之本さんは、そういう人だった。

 ◆鈴木 誠治(すずき・せいじ)1966年、静岡県浜松市生まれ。トルシエ・ジャパン時代にサッカー担当。かたことのフランス語で数度、突撃取材を試みるが、すべて玉砕。トルシエ監督が心を許した木之本さんが、うらやましかった。

続きを表示

2017年1月27日のニュース