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リオ五輪代表FW浅野 体力差補うために技術磨いた少年時代

[ 2016年7月29日 10:45 ]

サッカークラブに通う小学生時代の浅野(前列右から2人目)

リオ五輪日本代表戦士の分岐点

 シュートを打って終わっても、外せばすぐに怒られた。「シュートは決めて終われ!」。フィニッシュに持ち込むだけでは許されない。三重県菰野町のペルナSCで小学校3~6年を過ごした浅野は、個人のスキルを重視していた清水保博コーチ(48)に「決める」ことを徹底して教え込まれた。

 2人の兄を追うように始めたサッカー。現在は50メートル5秒9の快速でも、当時の浅野を「すばしっこかったけど、速さでちぎるような感じではなかった」と同コーチは振り返る。背も低く、クラスでは一番前が指定席。小3の頃から高学年と一緒にプレーしていたため、通用せずに「やめたい」と思うことも多々あった。それでも、身体能力で簡単に勝てなかったことが、それを補う決定力や足元の技術を伸ばすきっかけとなる。

 週2、3回の練習に加え、土日は試合。とにかくドリブルをし続けた。一貫して言われてきたのがクリア禁止。自陣のペナルティーエリアからドリブルを始めて、ボールを奪われ負けたこともある。だが、同コーチは指導方法を変えなかった。「しょうもないサッカーをやるんだったら“ちゃんとしたサッカーをして負けろ”と。ドリブルのうまいチームがあると聞けば無理やり、名刺を渡して試合をしてもらったりしていた」。三重県内で3位に入る強豪に成長しても、バスで大阪や愛知に遠征に行き、その都度壁にぶち当たった。

 当時、清水コーチが理想としていたのがブラジルのサッカーで、指導者研修として現地に赴くほどだった。「リバウドにロナウド、ロベカル。ブラジルが好きで、ブラジルが良くて…」。浅野が高学年になる頃には、地球の裏側から取り寄せたブラジル代表のユニホームがペルナSCの勝負服に変わった。恩師が憧れたサッカー王国のピッチに、菰野町で決定力と技術を磨いた21歳が立つ日が来る。

 ◆浅野 拓磨(あさの・たくま)1994年(平6)11月10日、三重県菰野町出身の21歳。ペルナSCから八風中に進み四日市中央工高へ。13年に広島入団。昨季32試合出場8得点でベストヤングプレーヤー賞を受賞。J1通算58試合出場12得点。今年7月にアーセナルへ完全移籍。国際Aマッチ出場5試合出場1得点。1メートル71、70キロ。利き足は右。

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2016年7月29日のニュース