【G1温故知新】1994年高松宮杯優勝 ナイスネイチャ

[ 2017年3月22日 06:00 ]

1994年の高松宮杯、ナイスネイチャがスターバレリーナをかわしゴール板へと飛び込む
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 G1の過去の勝ち馬や惜しくも力及ばなかった馬、記録以上に記憶に残る馬たちを回顧し、今年のレースの注目馬や見どころを探る「G1温故知新」。第13回は1994年の高松宮杯(現・高松宮記念)で2年7カ月ぶりの勝利を飾った90年代を代表する個性派ナイスネイチャを回顧する。

 高松宮杯が芝2000メートルの中距離G2から、芝1200メートルのスプリントG1に模様替えして早21年。そして“宮杯”から“宮記念”に改称して19年が経過した。思い出深い“宮杯”時代の勝ち馬が1頭いる。1994年のナイスネイチャだ。

 1991年暮れから残した“有馬記念3年連続3着”という怪記録ばかりがクローズアップされがちな彼だが、3歳秋までは強烈な決め手を持った気鋭の競走馬だった。主戦の松永昌博元騎手が言うには「菊花賞を境にモタモタするようになった」らしい。菊花賞後の鳴尾記念を辛勝して以降、勝ち星に見放されるナイスネイチャ。結局G1に手が届かず引退していくわけだが、惜敗続きだった要因を己の走りのみに求めるのは贅沢に思えるぐらい、競った相手は豪華であった。

 1994年7月10日、G2高松宮杯当日の中京競馬場には前年のダービー馬がいた。菊花賞前の京都新聞杯をメンバー随一の末脚で制覇してから足踏みが続いていたウイニングチケットである。半年以上の休み明けとは言えどファンの信頼は厚く、単勝2・1倍の1番人気。このダービー馬より2歳年上で、同じく京都新聞杯の覇者であったナイスネイチャは、“後輩”に大きく水をあけられた5番人気だった。

 高松宮杯までナイスネイチャが歩んできた道のりは決して平坦ではなかった。91年の有馬記念。このグランプリにおいて3着に健闘して世代屈指の実力を示しながらも、骨膜炎に苦しみ翌春を全休。大阪杯で蘇った同期の2冠馬トウカイテイオーを彼は外野で見つめた。秋には復帰がかなったものの、始動戦の毎日王冠(3着)を皮切りに惜敗続き。初距離のマイルCSで3着ならば、大一番の有馬記念でも3着であった。翌93年の阪神大賞典では初めて松永が鞍上を離れた。だが結果はやはり3着。ほどなく馴染みの松永に手は戻った。

 トウカイテイオーが奇跡の復活を遂げた93年有馬記念も3着。“3”という数字に悶々とし続けた。翌94年、6歳になると彼は徐々に衰えを見せ始め、3着すら確保できないレースも増えた。高松宮杯の前に出走した宝塚記念はビワハヤヒデの4着だった。

 正攻法ではウイニングチケットに勝てない。しかし、戦法を改めるにはナイスネイチャは年齢を重ね過ぎていた。ペースは決して遅くなかったが、ナイスネイチャは掛かり気味に前を追いかけた。幾度となく繰り返されたこのシーン。ところが、この日の結末は違った。先に動いて進出を図ったウイニングチケットが伸びあぐねる。一方のナイスネイチャは4コーナーで抜群の手応えだ。早めの競馬で粘り込みを図るスターバレリーナを残り150メートルほどで捉えると、半馬身差をつけてゴール板を駆け抜けた。こうして凱歌を上げた彼と松永を待っていたのは、ファンによる万雷の大歓声であった。

 歓喜の高松宮杯の後は1勝すら上げられず、かといって惜敗続きだったというわけでもなく、晩年は普通のオープン馬と化して競馬場を去った。鞍上の松永は、現在は調教師として毎年中堅以上の成績を残している。今年の高松宮記念には同師の管理馬であるラインスピリットが出走する。年齢はあの時のナイスネイチャと同じ6歳だ。以前よりもズブくなったきらいのあるラインスピリットだが、それが現在の中京コースには向くかも知れない。師の愛弟子・森一馬は初めての平地G1挑戦。ラインスピリット自身もG1初出走となるが、侮れない1頭と言えそうだ。生まれ故郷で健在なナイスネイチャもきっと応援している。

(文中の馬齢表記は新表記で統一)

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