豊と幸四郎の父、“ターフの魔術師”武邦彦氏が死去…

[ 2016年8月13日 05:30 ]

JRA調教師引退セレモニーで三男の武豊騎手(左)と記念撮影に納まる武邦彦氏

 昭和の名ジョッキーで、武豊・幸四郎兄弟の父でもある武邦彦氏が12日午前1時26分、肺がんのため入院先の滋賀県済生会病院で死去した。77歳だった。その華麗な騎乗スタイルから「ターフの魔術師」の異名を取った邦彦氏。その遺伝子は三男・豊に受け継がれた。騎手引退後は調教師としても活躍。スポニチ本紙上でG1時に「武邦 名人解説」を執筆した多彩な才能の持ち主が、帰らぬ人となってしまった。通夜は14日、告別式は15日に行われる。

 競馬界にショキングなニュースが駆け巡った。肺がんを患い、今春から入退院を繰り返していた武邦彦氏が天国に旅立った。「騎手」「調教師」としての実績ばかりでなく、三男・豊と四男・幸四郎の「父」としても名をはせ、競馬界に残した足跡は計り知れない。

 豊は11日に北海道・門別のナイター交流重賞に参戦。危篤と聞いたのは日付が替わった深夜とあって、すぐに駆け付けることはできなかった。豊はJRAを通じて「ホースマンとしても、父親としても、たいへん尊敬できる偉大な人でした。今の私があるのは父親のおかげです。まだまだ見守っていてほしかったので、本当に残念です」とコメントを発表。幸四郎は急いで病院へ向かったが、着いたのは既に息を引き取った後だったという。幸四郎は本紙の取材に対し「親父から教わった全てのことを、今後の人生に生かしたい」と声を震わせた。

 邦彦氏がデビュー16年目にして初めてクラシック競走を制した72年の桜花賞。検量室ではいろいろな人に声を掛けられたが、謙虚に頭を下げるだけ。記者の「悲願成就?」の質問にも「特に気にしていなかった」と答えたほど冷静な勝負師だった。その後は一気に開花。70年代に数々のビッグレースを勝ち「ターフの魔術師」「名人」「勝負師」など、数々の異名を付けられる関西のトップジョッキーになった。

 そんな男が2度だけ涙を流したことがある。1度目は73年タケホープで制した菊花賞。1週間前に落馬事故でケガをした嶋田功の乗り代わりだった。管理する稲葉幸夫師が重責を果たし労をねぎらうと同時に「嶋田にも乗せてやりたかったな」と目に涙を浮かべていたのを見て、もらい泣きした。2度目は77年ダービー、ハードバージでの2着敗戦。頭差で敗れ、厩務員が「悔しい、悔しい」と涙を流すのを見て、馬上で一緒に泣いた。このあたりが「邦ちゃん」「タケクニ」などと関係者やファンから呼ばれ、愛された点であろう。

 「武」といえば、今でこそ競馬界の第一人者「豊」が代名詞。しかしデビュー当時、豊は「タケクニの息子」と呼ばれていた。85年に騎手を引退し、87年に厩舎を開業。同年に豊が騎手デビューを果たした。いつしか立場が変わり「ユタカのオヤジ」と呼ばれるようになった邦彦氏。調教師としてもバンブーメモリー、メジロベイリーでG1を制覇。90年スプリンターズSは豊とのコンビで父子制覇。ガッチリと握手を交わした姿が印象的だった。その豊はくしくも騎乗停止中(21日まで)で今週は騎乗せず、棺の横に付き添っている。父子で最後の会話を交わしていることだろう。

 ◆武 邦彦(たけ・くにひこ)1938年(昭13)10月20日、京都府生まれ。57年3月騎手デビュー。通算7679戦1163勝。関西所属騎手で初の通算1000勝を達成。八大競走8勝を含む重賞80勝を挙げた。85年2月に騎手引退。87年に調教師として厩舎開業。09年の引退まで4193戦375勝(うち重賞18勝)。騎手の豊は三男、幸四郎は四男。

続きを表示

この記事のフォト

2016年8月13日のニュース