平尾昌晃さん急死 2年前に肺がん発覚も「生涯現役」貫く

[ 2017年7月23日 05:30 ]

77年、熱唱するロカビリー三人男(左から)平尾昌晃さん、ミッキー・カーチス、山下敬二郎さん
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 歌手・畑中葉子(58)とのデュエット「カナダからの手紙」や五木ひろし(69)の「よこはま・たそがれ」など多数のヒット曲を手掛けた、戦後を代表する作曲家の平尾昌晃(ひらお・まさあき)さんが21日午後11時40分、肺炎のため都内の病院で死去していたことが22日、分かった。79歳。東京市(現・東京都)出身。昭和30年代には「和製プレスリー」と呼ばれ絶大な人気を獲得。2年前に肺がんを患い闘病していた。

 平尾さんが体調を崩したのは今月13日。「蒸し暑く体調が悪い」と訴え、東京都新宿区の病院で検査。肺炎の疑いがあるため入院したが、食欲も旺盛で元気だった。関係者によると「病室ではウィンブルドンテニスと、松居一代さんの騒動を特に楽しみにテレビで見ていた。穏便に解決をと言っていた」という。そんな平尾さんの容体が急変したのが21日深夜。身内やスタッフにみとられて亡くなった。今週中ごろに家族葬を営み、後日、関係者向けの音楽葬を行う方向で調整している。

 1958年に歌手デビュー。音楽イベント「日劇ウエスタンカーニバル」で故山下敬二郎さん、ミッキー・カーチス(78)と「ロカビリー三人男」として一大ブームを築き、作曲家としても成功したが、実は幾多の苦難を克服し「生涯現役」を貫いた不屈の人生だった。

 まず病魔。68年に肺結核で片肺を切除して以来不調に悩まされ、肺疾患が慢性化した。2014年の年末には原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態になったが、奇跡的に持ち直した。翌15年に肺がんが判明。体力面を考慮し、手術を回避した。以降は呼吸補助器を携行し公の場にも積極的に出ていた。

 創作面でも苦労。歌手として落ち目になり、結核による休業で“過去の人”になりかけた。医師から「肺はしばらく使えない」と通告され歌手を断念。しかし作曲家として和洋折衷の曲作りを模索し、ソフトな演歌から流行歌まで何でもござれの多彩さを得た。その発露が小柳ルミ子(65)の「わたしの城下町」(71年)「瀬戸の花嫁」(72年)。73年には五木ひろしの「夜空」で日本レコード大賞を初受賞した。

 78年、門下生の畑中葉子とデュエットした「カナダからの手紙」は大人の恋を軽やかな旋律に乗せ大ヒット。平尾節の真骨頂となった。

 目立ったヒットを出せなくなっても、テレビ朝日「やじうまワイド」のキャスターなどタレントとして活躍。近年はバラエティー番組にも進出し若者の認知度も上昇していた。最後のテレビ出演となった5月放送のBS日テレ「歌謡プレミアム」では、顔がむくんでいたものの、布施明(69)と「霧の摩周湖」を熱唱した。

 8月以降も仕事を入れており、2週間ほど前まで周囲に「どんどん(仕事を)やっていきたい」と意気込みを語っていた折の急死。関係者は「今回も乗り越えてくれると信じていたが…」と話した。

 ◆平尾 昌晃(ひらお・まさあき)1937年(昭12)12月24日、東京市牛込区(現東京都新宿区)生まれ。慶応高中退。58年に平尾昌章の芸名でロカビリー歌手としてデビュー。代表曲は「星は何でも知っている」「ミヨちゃん」など。68年に本格的に作曲家に転向し、以降数多くのヒット曲を手掛ける。74年に「平尾昌晃音楽学校」(現平尾昌晃ミュージックスクール)を設立。2002年には「ラブ&ハーモニー基金」を立ち上げた。01年モンブラン国際文化賞受賞、03年紫綬褒章受章など多数。

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