ペギー葉山さん急死 9日イベントリハで元気な姿も風邪ひき急変

[ 2017年4月13日 05:30 ]

NHK紅白歌合戦で「南国土佐を後にして」を熱唱するペギー葉山さん(89年12月31日撮影)
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 「ドレミの歌」「南国土佐を後にして」などで知られる歌手のペギー葉山(ぺぎー・はやま、本名森シゲ子=もり・しげこ)さんが12日午前11時55分、肺炎のため都内の病院で死去した。83歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行い、後日お別れの会を開く。ペギーさんは9日にイベントのリハーサルに臨み、元気な様子を見せていた。突然の死に歌手仲間や関係者に衝撃が広がっている。

 生涯現役を貫いたペギーさんが急死した。

 関係者によると、長男や親族、マネジャーら約10人に見守られる中、穏やかな表情で眠るようにして息を引き取った。遺体はこの日夕、関係者が運転する車で都内の自宅前まで戻り、助手席の男性が遺体に手を添え「着いたよ」と言うと、車はそのまま走り去った。65年に結婚し、05年に亡くなった俳優の根上淳さん(享年82)の菩提(ぼだい)寺に向かったという。

 ペギーさんは9日、都内で歌唱イベントのためのリハーサルに臨んだ。翌朝に「風邪っぽい」と体調不良を訴え、かかりつけの都内の病院に行ったところ、肺炎と診断され入院。治療が追いつかないほど容体が急激に悪化し、11日夜に入院先に家族が集められ、その翌日に亡くなった。

 最後の公の場になったのは、先月29日に東京・日生劇場で行われた越路吹雪さんのトリビュート公演だった。名曲「シャンソン」を歌い、ラストは坂東玉三郎(66)らと手をつないで出演者全員で「すみれの花咲く頃」を合唱。翌30日の自身のブログで「ずーーと私の手を握ってくださって」と興奮気味につづっていた。

 音楽好きのクリスチャンの家庭に生まれ育ち、終戦後に米軍キャンプを回ってジャズを歌った。その才能が買われ、青山学院高等部在学中に、ビッグバンド「渡辺弘とスターダスターズ」の3代目の専属歌手に。1952年に「ドミノ/火の接吻」でデビューした。

 歌謡史に残した功績は大きく、ペギーさんが「ドはドーナツのド」と日本語で訳詞した「ドレミの歌」(61年)は音楽の教科書に掲載され、今も子供から大人まで広く知られている。59年の「南国土佐を後にして」は、ご当地ソングながら1年でミリオンセラーを達成し、累計200万枚を売り上げた。NHK紅白歌合戦には14回出場。07年には女性で初めて日本歌手協会会長を務めた。

 マルチタレントとしても活躍し、73年からフジテレビ「ひらけ!ポンキッキ」でしつけのコーナーを担当。73〜74年にはTBS「ウルトラマンタロウ」でウルトラの母の人間としての姿「緑のおばさん」を演じた。

 ◆ペギー葉山 本名・森シゲ子。1933年(昭8)12月9日生まれ、東京都出身。青山学院高卒。52年にレコードデビュー。54年にはNHK紅白歌合戦に初出場を果たした。芸名は、友人と電話していた際に混線し紛れ込んできた米国人男性に「君の声はペギーというイメージ」と言われたことが由来。それに、御用邸があり響きが良いという理由で葉山を付けた。09年にはヒット曲「学生時代」の歌碑が、青山学院大の青山キャンパス(東京都渋谷区)に建てられた。95年、紫綬褒章、04年旭日小綬章。

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