ある映画人の死

[ 2016年11月14日 10:15 ]

死去した荒戸源次郎氏

 【佐藤雅昭の芸能楽書き帳】これを喪失感というのだろうか。寂しくてやりきれない。映画プロデューサーにして監督の荒戸源次郎さんの悲報に触れての率直な感想だ。70歳とは早すぎる。

 最後にお会いしたのは2013年の12月だったか、年が明けてからだったか…。14年1月、芸能面のコラム「我が道」に女優の大谷直子さんに登場願い、担当編集者を務めた。大谷さんが映画「ツィゴイネルワイゼン」について書いた回があって、場面写真を借りるのが目的だった。荒戸さんがプロデュースした80年公開の作品だ。

 三軒茶屋の喫茶店で待ち合わせた。糖尿病を患っていたから、スリムにはなっていたが、目力は強かった。映画界を取り巻く環境から話は弾み、次の構想もちらりと明かされたような気がする。そんな時はいつも映画少年の顔になった。

 荒戸さんの名前を認識したのは80年、大学生の時。所属していた映画サークルで鈴木清順監督(93)を招き、「ツィゴイネルワイゼン」の上映とともに講演をしてもらったのが縁だ。その後、スポニチに入社して映画担当になった筆者が仕事で出会ったのが89年の晩秋。「どついたるねん」の公開時だった。

 赤井英和(57)の自伝をベースに荒戸さんがプロデュースして映画化。阪本順治監督(58)がメガホンを取った。「ツィゴイネルワイゼン」は東京タワーの下に建てたエアドーム型の移動式映画館「シネマ・プラセット」で上映したが、「どついたるねん」は原宿に場所を変えて公開し、若者の動員に成功した。

 ブルーリボン賞で作品賞、毎日映画コンクールでは優秀賞、原田芳雄さんの男優助演賞、そして阪本監督と赤井がスポニチグランプリ新人賞を受賞するなど、その年を代表する1本になった。

 それからだ。「鉄拳」(90年)「王手」(91年)「夢二」(91年)とプロデュース作の取材を重ね、荒戸さんとの付き合いも濃くなっていった。九州大学を中退し、唐十郎(76)の「状況劇場」に参加。学生時代から武闘派として知られた人だが、他人を引きつける魅力があった。

 映画はバクチみたいなもので、ハズれることも少なくない。興行的に失敗すると、しばし姿を消した。半年、いや1年も姿を見せないこともあった。「どこに行ってたんですか?」と尋ねると、両切り缶ピースをうまそうに喫いながら「鎌倉で板前をしていた」とニヤリ。そんな一コマも思い出す。

 故車谷長吉さんの直木賞受賞作「赤目四十八瀧心中未遂」を自ら監督。寺島しのぶ(43)からヌードも辞さない覚悟を引き出し、映画女優として開花させた。そして花村萬月氏(61)の芥川賞受賞作「ゲルマニウムの夜」では大森立嗣(46)を監督デビューさせた。この時は上野の東京国立博物館敷地内に一角座という小屋を造り、半年間もロングランさせた。

 私生活については語らなかったが、作家の夏石鈴子さんとの結婚は照れくさそうに明かしてくれた。07年のことだったが、13年に離婚していたのは知らなかった。清順監督と組んだ「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」「夢二」の大正浪漫3部作は映画史に残る傑作。そして阪本監督や大森監督らを発掘したのも荒戸さんの功績だ。腹の据わった男気のある映画人がまたひとり彼岸に渡った。安らかにお休みください。(編集委員)

 ◆佐藤 雅昭(さとう・まさあき)北海道生まれ。1983年スポニチ入社。長く映画を担当。

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