テレビ番組の礎を築いた永六輔さん マルチな才能、戦争に厳しい目…

[ 2016年7月12日 10:00 ]

77年、「純情二重奏」の稽古をする永六輔さん(左)

永六輔さん死去

 7日に死去した永六輔さんは、日本の放送業界の草創期を駆け抜け、テレビ番組の礎を築いた立役者だった。一方で戦争体験に基づき、反戦・反骨を貫いた人でもあった。昨年1月に東京都内で開かれたイベントでは車いすでステージに上がり、戦争の悲惨さを涙ながらに訴えていた。

 永さんは生前、「軍国主義から民主主義へと変わり、テレビ放送が始まったころに僕は20歳。現場はみんな若くて、暇で、着たきりすずめでしたが、面白かった」と振り返っていた。1958年には石原慎太郎氏、寺山修司氏、江藤淳氏ら各分野で大活躍していた当時の新世代で「若い日本の会」を結成した。

 59年には初めて作詞に挑戦。水原弘さんが歌ったデビュー作「黒い花びら」が第1回日本レコード大賞を受賞するなど、いきなり非凡な才能を開花させた。続いて61年には世界的ヒットとなり、いまも歌い継がれる名作「上を向いて歩こう」を発表した。

 構成や台本を手掛けたNHKのバラエティー番組「夢であいましょう」(1961~66年放送)も大ヒットした。洗練された演出で高度成長期のお茶の間に夢を届けた。

 「左翼も右翼も歌も漫才も革命も、何でも入っているのがバラエティー」と語った。60~70年代以降、テレビからラジオへと軸足を移し、「有名なことと、芸があることは全く違う。無名の新人を大事に育ててほしい」と、晩年までテレビ、ラジオの在り方を真剣に見つめていた。

 戦争に対しても厳しい目を持っていた。東京の下町で生まれ、戦時中は宮城に集団疎開した国民学校の仲間たちとは別に、長野の知り合いの家に疎開。1945年3月、卒業式を母校で行うために宮城から東京に戻った6年生は、東京大空襲に遭った。当時を振り返った際、「東京に向かって子供をいっぱい乗せた列車がどんどん走った。そして東京で死んだ子供がいっぱいいた」と、おえつを漏らした。

 政治活動にも積極的だった。60年安保には反対を表明。77年には革新自由連合の結成に参加した。83年には参議院選挙に比例区から出馬したが、落選。それでも自身のラジオ番組や著書では平和や日本国憲法の大切さを繰り返し説いた。2014年に刊行したエッセー集では、「戦争を語ることができる最後の世代としてもラジオのスタジオに通い、憲法改正をはじめ、なんだかきなくさい最近の風潮に立ち向かおうと思う」と記した。永さんは、改憲勢力が3分の2を超えた参院選の選挙結果を見る前に旅立った。

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