「鬼」と呼ばれた厳しさの裏で…蜷川さん 素顔は温かく、照れ屋

[ 2016年5月13日 06:45 ]

2000年6月「火の鳥」発表会見での蜷川幸雄さん

演出家・蜷川幸雄さん死去

 舞台には一切妥協を見せず、蜷川さんは俳優陣から「鬼」ともたとえられた。1955年に俳優としてデビューしたが「演じる側としてはひどいもの」と自任するほど実績がなかった。劇団に「演出させて」と直訴するも「名優じゃないと、誰もついてこないよ」と一蹴される日々だった。

 それならと67年、200万円借金して独立。「才能に自信がなく、恐怖心に駆られながらラーメンをすすった」と語っており、その思い出からつゆ入りのそばはずっと苦手だった。

 貫いたのは「自分の視点は放棄したくない」という志。その世界観を具現する立場の俳優に対しては、常に厳しく怒鳴りつけた。「おまえは、コンビニで手に入る程度の欲望しか持ち合わせていないのか!」。外国の戯曲を日本的な視点で料理する物語のスケールに比べ小さな演技をしていると感じれば容赦なかった。「バカ!」「クソ!」「マヌケ!」「イヌッ!」…。年上にも平気で暴言をぶつけた。

 それも俳優の可能性に期待すればこそ。「稽古から千秋楽までは、自分をさらけ出してぶつかる、親兄弟より生々しい関係」と話すような熱さに魅了され、千秋楽では涙を流し、別れを惜しむ俳優も少なからずいた。

 そんな厳しさの一方、仕事場を離れると、人情を重んじる温かみある人柄だった。柱の陰から客の評判を盗み聞きするほど、素顔はナイーブで照れ屋。81年に映画「魔性の夏 四谷怪談より」の監督に挑戦した際は、下戸に近いのに毎日、スタッフ約40人とビールをあおり、交流を深めた。

 一度志を一つにした俳優は、疎遠になっても気にかけた。14年3月に、独立時の盟友だった蟹江敬三さんが亡くなった際には、急きょ報道陣に応対。大きな目に涙をため「あいつが俳優をしているのは、いなくなった父さんが名乗り出てくれるかもしれないからと言っていた。ちゃんと会えたのかな…」。その表情は、兄弟に接するように、情に満ちたものだった。

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