加山雄三 いつまでも若大将で…100歳になったら「歌はやらないよ」

[ 2014年12月16日 09:40 ]

カメラマンの注文に応え、往年のポーズを見せてくれた加山雄三

 来年、芸能生活55周年を迎える加山雄三(77)。「若大将シリーズ」で俳優として一世を風靡(ふうび)した一方、日本のシンガー・ソングライターの先がけとしてエレキギターを浸透させるなど、偉大な功績を数多く残してきた。半世紀を超えるその歩みを振り返り、伝説のロックバンド、ザ・ビートルズとの交友や、父親で俳優の故上原謙さんへの知られざる思いを語る。

 「まさか77まで歌を歌っていられるとは、デビューした時は夢にも思わなかった」。精悍(せいかん)な顔からは“ぼかぁ、幸せだなぁ”の名ゼリフが聞こえてきそうだ。

 最初の絶頂期は、映画「エレキの若大将」が公開された65年。老舗のすき焼き屋の坊ちゃんで、スポーツ万能の爽やかな主人公「田沼雄一」はこの作品でエレキブームの火付け役となった。

 「俺は、若大将になるために生まれてきた。必ず優勝するとか、そういうのは別だけど、正義感や男っぽさ。生き方や精神が似てるんだ」

 前年に行われた東京オリンピックは大成功し、いざなぎ景気の中、列島は加山フィーバー。作曲を手がけた挿入歌「君といつまでも」は350万枚超のヒットとなり、音楽家としての評価も不動のものとする。

 父の上原謙さんが無類の音楽好きだった影響で膨大なレコードや高価な機材に囲まれ育った。昭和30年代の一般的な暮らしでは考えられない環境が才能の素地となった。「音楽というのは、いろんなものを聴くことで自分の気持ちいい旋律やコード進行が固まる。そうすると、メロディーが天から降りてくることがたくさんあるんだ」。

 本来の好みは「ロック系」だ。「静かなラブソングが売れちゃったもんで、当時はしょうがないやという気持ちだったんだけど」と言いながら、「エレキの…」では、米バンドのベンチャーズを意識した歌なしのロック「ブラック・サンド・ビーチ」を生み出した。

 「日本生まれの、エレキだけの曲って当時ほかにないんじゃない?ベンチャーズの『ウォーク・ドント・ラン』のコード進行を反対に下からやってみたら、あのメロディーが生まれちゃったんだよ」と、事もなげ。しかしこの曲の完成度に驚いた本家が、のちにカバーしたのだから驚きだ。

 人気と才能をほしいままにした20代は「つっぱってた」。その鼻っ柱たるや、当時世界を魅了していたビートルズをライバル視するほどだった。  

 ビートルズが来日した66年、加山はメンバーと面会している。当時は同系列のレコード会社で、日英のトップアーティスト同士。「会社から“ビートルズと会いませんか?”と言われてね。でも当時はホントいきがってたから“いいよ!”って帰っちゃったんだ」と照れくさそうに振り返る。

 でも尊敬する祖母の強い勧めもあり、バンドの宿泊先だった東京ヒルトンホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)を訪れた。

 部屋では約2時間半、すき焼きを食べたり、加山のアルバム「ハワイの休日」を聴いたり交流を深めた。「驚いたのは、大きな紙の真ん中に丸い白い空白を残して、4人が四隅から絵を描いていたんだ。で、空白にサインを入れてね。なんだか不思議な雰囲気だった」

 その時、発売前だった名盤「リボルバー」を聴かせてもらったという。テープを逆回しにしての録音など先進的な手法を多く導入し、バンドの創造性がさらに向上したアルバム。「ビートルズらしいと思ったね」。アイドルからアーティストへ脱皮を始めていた4人から、無意識に感じ取るものがあったのだろうか。

 ちなみに、他の人間が一人も写り込まない状態で、4人と1枚の写真に納まっているのは世界で加山だけだという。

 そのビートルズが空中分解し、解散に向かう70年ごろから、加山にも低迷期が訪れる。上原さんとともに役員を務めていた会社が23億円の負債を抱え倒産。若大将シリーズの人気にもかげりが見え71年に終了。キャバレーやナイトクラブをまわり、ギャラをほぼ借金返済に充てる日々となる。

 「若い時は、自分のことしか考えてなかった。人生で大事なことって、イケイケのときは気付かない。つまずくと人は去っていく。そういうときに初めて分かる」

 この挫折を契機に「人に喜んでもらうために何をするべきか」を最も大切にするようになった。すると70年代中盤には人気も盛り返し、以降はテレビドラマや曲作り、CMなどで活躍を続ける。

 91年に、上原さんが死去。当時54歳だった加山もあと5年で、父が亡くなったのと同じ82歳になる。「父は、俺の年のころには、もうちょっと老けてたと思うけどね」と笑いながら、父の年齢を超える自分について「想像つかないね」と話すほど、その存在は大きい。

 俳優という特殊な世界に生きた父。その生きざまは破天荒、かつ知的だった。「面白い人間だった。手が早いんだ。親父は。殴りかかられる前に2人殴ってた。学生のとき“ケンカするから日本刀貸してくれよ”って言ったら本当に出してきて“頑張ってこいよ”だもんね。今の芸能界じゃ考えられない」と頭をかく。

 少年時代はもちろん、同じ芸能界に身を投じてからも「いろいろ抵抗を感じたり、反発したことがあった」と明かす。会社の倒産や上原さんの再婚に伴う騒動など、父子の関係には幾度となく波風が立ったが「一つ言えるのは、あの親がいなければ、僕がいないということですよ」と声を強めて言った。

 11月に旭日小綬章を受章。その際、83年に勲四等瑞宝章を受けた父に言及し「おまえもやっともらえたか、って言ってる気がする」と語っていた。上原さんの年齢を一つ超える2020年には、ふたたび東京オリンピックが開催される。

 「年をとって、しぼんでいくのは時間の問題」と謙遜しつつも、喜寿とは思えない若々しさ。100歳になっても歌い続けるのか。そう尋ねると「歌はさすがにやらないよ。人間が年を取ったり、長生きしたりする仕組みを突き止めたい」と即答した。

 「T細胞という体組織が丈夫で活性化するほど若々しくいられる。でも、なんで活性化するのかが分かっていないんだ」。過去を振り返る時より目の輝きが増した。

 仮説はある。「人間の3大欲求(性欲、食欲、睡眠欲)でさえ、満たされると脳に“もういいですよ”と命令する酵素が出る。でも、人のために一生懸命やっているときは、その酵素が出ないんだよ」。この現象と因果関係があると力説する。なるほど、身をもって証明しているかのようだ。

 「古い肉体の舟を捨てて精神世界に行くか、150歳くらいまで生きる世の中になるか、どっちが早いかな」。100歳まで生きれば2037年だ。海より大きなそのスケール。加山は「永遠の若大将」であり続ける。

 ≪「人生で最後」全国ツアー中≫現在は「人生で最後」と宣言している全国ツアーの真っ最中。来年7月25日の東京・NHKホールまで、47都道府県を縦断し、計52公演を行う。ツアー終了後は、太陽光や風力など自然エネルギーだけで動く船「エコシップ」で全世界を航行する壮大な計画を実現させるための準備に入る。

 ◆加山 雄三(かやま・ゆうぞう)本名池端直亮(いけはた・なおあき)。1937年(昭12)4月11日、神奈川県生まれの77歳。慶大卒業後の60年、東宝と専属契約を結び映画「男対男」でデビュー。「弾厚作」名義で作曲活動も行い、代表曲は「海 その愛」(76年)「サライ」(92年)など多数。

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