世界的巨匠・大島渚監督死去 96年脳出血から懸命リハビリ

[ 2013年1月16日 06:00 ]

15日に死去した大島渚さん

 「愛のコリーダ」や「戦場のメリークリスマス」など多くの話題作・問題作を発表し、世界的にも知られた映画監督の大島渚(おおしま・なぎさ)さんが15日午後3時25分、肺炎のため神奈川県藤沢市の病院で死去した。80歳だった。京都市出身。葬儀・告別式の日取りは未定。喪主は妻で女優の小山明子(こやま・あきこ)。96年に脳出血で倒れ、リハビリを続けてきたが、小山の献身的な介護も実らなかった。

 映画の世界にとどまらず、さまざまな場で活躍した大島監督が静かに逝った。96年2月に渡航先のロンドン・ヒースロー空港で脳出血に見舞われ、一時右半身まひに。リハビリを続け、99年公開の「御法度」で監督復帰。

 しかし、2001年にも十二指腸潰瘍穿孔(せんこう)で倒れ、11年10月初旬に嚥下(えんげ)性肺炎で一時意識がなくなり入院。その後、療養していたが、昨年12月に肺炎と診断された。15日に容体が急変し、眠るように息を引き取った。関係者によると、小山は憔悴(しょうすい)しきっているという。

 京都大学卒業後の54年に松竹に入社。59年に「愛と希望の街」で監督デビュー。翌60年に「青春残酷物語」「太陽の墓場」を発表し、吉田喜重、篠田正浩両監督とともに松竹ヌーベルバーグの旗手と呼ばれて注目を集めた。同年、安保闘争を舞台にした「日本の夜と霧」を作ったが、松竹が大島監督に無断で上映中止を決めたことに抗議して退社。小松方正、戸浦六宏らとともに製作会社「創造社」を設立し、テレビドキュメンタリーや「白昼の通り魔」(66年)、「絞死刑」(68年)といった問題作を次々に製作した。

 国際的な名声を高めたのは76年公開の「愛のコリーダ」だった。36年に起こった阿部定事件を題材に男女の究極の愛を描いたもので、カンヌ国際映画祭の監督週間に出品されてセンセーションを起こした。ハードな性描写から映倫が介入し、大幅な修整が施され、現在でも日本国内ではオリジナルが見られない。

 このあと、78年「愛の亡霊」でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞。その後も日英合作「戦場のメリークリスマス」などで国際的に活躍した。

 一方、テレビ番組やワイドショーにも数多く出演。テレビ朝日「朝まで生テレビ!」では菅直人氏に「役者“でも”とはなんだ!世界中の役者に謝れ」と激怒するなど、政治家を相手に歯に衣(きぬ)着せぬ発言を連発し話題を呼んだ。

 90年には結婚30周年を祝うパーティーで、友人で作家の野坂昭如氏(82)から殴打されるというハプニングもあった。大島監督が、祝辞を予定していた野坂氏の指名を忘れ、泥酔状態の野坂氏が監督にパンチを見舞い、監督も持っていたマイクで応戦。2人の“大乱闘”としてワイドショーなどで大々的に報じられた。

 「誰もやらないことをやる」と自らを駆り立て、時に周囲に怒りをぶつけながら信念を貫いた大島監督。その生き方は反骨心にあふれ、信念を守るため孤立を恐れず闘い続けた生涯だった。

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