山田五十鈴さん死去 「養子会」市村正親らが送り出す

[ 2012年7月11日 06:00 ]

2001年2月、文化勲章受章のパーティで森繁久弥さん(右)に祝福される山田五十鈴さん

 戦前戦後を通して活躍した、日本を代表する女優の山田五十鈴(やまだ・いすず、本名美津=みつ)さんが9日午後7時55分、多臓器不全のため東京都稲城市の病院で死去した。95歳。大阪府出身。02年春に体調を崩し、以降は都内の病院を転々。公の場に出ることはなかった。親族がいないため、生前に山田さんを慕っていた市村正親(63)ら「養子会」を中心に、11日に通夜、12日に葬儀・告別式を青山葬儀所で行う。

 映画や舞台、テレビで70年近く活躍した大女優が静かに逝った。

 関係者によると9日昼ごろ、病院から「呼吸がいつもと違う」と連絡があった。「淀どの日記」など、山田さんの舞台を数多く手掛け、40年以上の親交がある演出家の北村文典氏(66)と、元付き人で約50年間、身の回りの世話をしてきた女性(69)が駆けつけた。その際、酸素マスクをつけていたが容体は安定。代表作の舞台「たぬき」で山田さんが弾いた三味線の音楽テープを流すと、首を動かしてリズムを取ったという。だが夕方に2人が病院を離れると容体が急変。ベッドで亡くなっているのを病院関係者が見つけた。

 山田さんは02年4月、住居としていた都内のホテルの部屋で、脳梗塞で倒れた。一度は退院したが右半身にマヒが残ったため同6月の舞台を降板し、都内の病院を転々。その間も三味線を握り、「右手の震えがなくならないとダメ」と復帰へ執念を見せていたが徐々に体力と意欲を失っていったという。06年ごろに現在の病院に移った。

 私生活も大女優にふさわしい華やかさで、4度の結婚と離婚を経験。衣笠貞之助監督ら恋の噂に上がったのは20人以上ともされる。

 最初の結婚相手だった俳優月田一郎さんとの間に生まれた一人娘で女優の瑳峨三智子さん(享年57)を、不仲と伝えられていたとはいえ、92年に亡くす悲劇も味わった。その後はかわいがっていた市村、西郷輝彦(65)、榎木孝明(56)ら約20人からなる「養子会」が心の支えだった。今年2月5日の誕生日には「養子会」がパーティーを開き、山田さんは「ヌイグルミをもらった」などと喜んでいた。舞台「時は…今」などで共演した市村は「私の芸の母が逝ってしまいました。役者魂を教わりました。優しい笑顔の奥の鋭い瞳が忘れられません。おっかさん、安らかに」と悼んだ。

 13歳だった1930年(昭5)に「剣を越えて」で映画デビューし、成瀬巳喜男監督「流れる」、黒澤明監督「蜘蛛巣城」、小津安二郎監督「東京暮色」など巨匠の作品に数多く出演。60年代からは主な活動を舞台に移し「たぬき」「太夫さん」で芸術祭大賞を受賞。テレビ朝日「必殺」シリーズでは得意の三味線、バチを武器にした必殺技で視聴者を楽しませ、93年に文化功労者、00年には女優として初の文化勲章を受章した。

 京都市の大徳寺三玄院に父母と瑳峨さんの墓があり、山田さんは生前から一緒に入る意向を示していた。親族がいないため葬儀では喪主を立てない。関係者によると「養子会」の“子供たち”を中心に行われそうだという。

 ▼西郷輝彦(映画「柳生一族の陰謀」などで共演) 訃報に接して「徳川の夫人たち」の、あの美しい立ち姿を思い浮かべています。もうご一緒に舞台に立てないのがつらいです。(自身のツイッターで)

 ▼榎木孝明(舞台「夏しぐれ」で共演) ご生前は家族ぐるみで可愛がっていただき楽しい思い出をありがとうございました。先生の芝居への熱い思いはしっかり受け継がせていただきます。ゆっくりお休みください。

 ◆山田 五十鈴(やまだ・いすず、本名山田美津=やまだ・みつ)。1917年(大6)2月5日、大阪府生まれ。新派俳優の山田九州男の娘として生まれ、幼少時から舞踊などを習う。30年に日活映画「剣を越えて」でデビュー。36年、溝口健二監督「祇園の姉妹」で好演、38年に成瀬巳喜男監督の「鶴八鶴次郎」で長谷川一夫さんと共演するなど、人気を不動のものとした。52年に「現代人」などでブルーリボン主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞を受賞。63年、東宝演劇部の専属となってからは舞台を中心に活躍。テレビドラマでも64年NHK大河ドラマ「赤穂浪士」で風格ある演技を見せ、76年からテレビ朝日の時代劇「必殺シリーズ」に出演。00年にはNHK大河ドラマ「葵徳川三代」に家康の生母役で出演した。

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