ライバルいなくなった談志さん いつもどこか寂しそうだった

[ 2011年11月24日 06:41 ]

立川談志さん死去

 【立川談志さんを悼む】「花井よぉ、100円玉2枚持ってる?」と言ってニッコリ、少年のように手を出す談志さんがいた。僕が誘って入った上野・池之端の寿司店。目の前は都バスのバス停。「こっから乗ると、俺ん家(ち)のマンションの前に止まるんだ」。“天下の談志”が都バスで。数年前のことである。芸も私生活も非常に合理的な考え方をする師匠だった。

 今年の初めに国立演芸場の楽屋で会ったとき、談志さんは目の前で着替えたのだが脚が極端に細くなっていた。だが、まだ口は元気だった。それから半年、師匠は点滴で栄養分を補うまでに。この10月の公演では自ら愛弟子・志の輔に電話して「悪いけどおまえ行ってくれ」と代演を頼んだほど。

 芸の上のライバル・古今亭志ん朝さんが01年に63歳で早世して以後、家元・談志師匠には“乗り越えるべきもの”はなくなった。遠い昔、名人・桂文楽らが後押ししたこともあって、志ん朝さんが“追い越し昇進”。談志さん(当時は小ゑん)は「強次(志ん朝さんの本名)、断れ」と直談判もしたが、以来2人は永遠のライバルになった。故三遊亭円生師匠が引き起こした落語協会分裂騒動は唯一、逆転のチャンスだった。談志さんは騒動のマッチポンプ役になった。だが、フタを開けてみれば、やはり志ん朝さんが上。分裂騒動から早々と身を引いた談志さんがいた。

 現代落語界の頂点に立ってはいたが、ライバルのいなくなった談志さんは、いつもどこか寂しそうだった。一方で優しさも人一倍。家族を毎年のようにハワイへ連れて行っていたこともある。不世出の噺家に変わりはなかった。そして、その芸は逆らい続けた師匠・五代目柳家小さんの影響を色濃く受けており、“達者”という新しい評価基準が生まれた。きっと冥土名人会で「談志・志ん朝二人会」をやるんだろうな……そう思うと胸が熱くなる、涙がこぼれる。本当にお疲れさまでした。(スポニチOB 演芸評論家 花井 伸夫)

続きを表示

2011年11月24日のニュース