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「アニキ」「こんばんは」ラッシャー木村さん死去

[ 2010年5月25日 06:00 ]

マイクパフォーマンスで人気だったラッシャー木村さん

 元プロレスラーでノア社員のラッシャー木村(本名・木村政雄)さんが、24日午前5時30分、腎不全による誤嚥(ごえん)性肺炎のため都内の病院で死去した。68歳。1964年に角界から日本プロレス入りし東京、国際、新日本、全日本、ノアなどで活躍。コミカルなマイクパフォーマンスで人気者となり04年に引退した。通夜、告別式は遺族の意向で親族のみで執り行われる。後日、ノアとしてお別れの場を設ける予定。

 昨年の三沢光晴さんの死去に続き、プロレス界を悲報が襲った。ラッシャーさんの突然の訃報に接したノアの仲田龍GMは「三沢さんに続きプロレス界の功労者が亡くなって本当に残念としか言えない。半年前くらいに仕事の件で自宅に電話した時は元気そうだったのに…」と肩を落とした。
 関係者によれば最近は糖尿尿を患い、都内の病院で入退院を繰り返していたという。昨年6月19日の三沢さんの密葬の際には車椅子に乗り参列。「なんでオレじゃなくて社長が先に逝ってしまったんだ」と号泣していた。
 ラッシャーさんは1958年にプロレスラーになる基礎体力づくりのために角界に入門。幕下20枚目まで番付を上げたものの、「十両に上がったら辞められなくなる」と突然廃業。64年に日本プロレス入門した。東京、国際プロレスを経て、アニマル浜口らと新日本に参戦した。81年9月23日の田園コロシアムの殺気立ったリングで「こんばんは…」とマイクを持って丁寧にあいさつしたことがファンに受け、ユーモラスなマイクパフォーマンスで一躍人気者になった。84年に全日本へ移籍した後もそのとぼけたキャラクターでファンの支持を広げた。
 全日本では最初は故ジャイアント馬場さんと敵対していたが、88年の世界最強タッグ決定リーグ戦で馬場さんのことを「アニキ」と呼び「義兄弟タッグ」を結成。さらに永源遙(現在ノアの営業)率いる「悪役商会」とユーモアたっぷりな試合を展開した。
 馬場さんが亡くなった後、00年のノア立ち上げメンバーに参加。還暦を過ぎてもリングに立ち続けたが、03年3月の日本武道館大会を最後に体調不良で長期欠場を余儀なくされた。復帰を目指してリハビリに取り組んだものの、転倒して腰を痛打。復帰を断念して04年7月10日の東京ドーム大会で引退発表した。その時のビデオレターでは「本当に、本当に、長い間、ご声援ありがとうございました。ごきげんよう、さようなら」とラッシャー節で締めくくりマイクを置いた。
 通夜・告別式は親族だけの密葬となるが、仲田GMは「ファンに記帳などしてもらえるようなことも考えたい」と追悼興行やファンによるお別れの場などを設ける予定。きょう25日の富山大会で故人の冥福を祈り10カウントが鳴らされる。
 ◆ラッシャー木村(きむら、本名・木村政雄=まさお)1941年(昭16)6月30日、北海道中川郡中川町出身。58年に大相撲の宮城野部屋に入門。しこ名は「木ノ村」。幕下上位に進んだが64年秋場所で突然廃業し、日本プロレスに入門。東京プロレスから国際プロレスへ移籍。69年にリングネームをファンから公募した「ラッシャー木村」に改名。81年に同プロレスが消滅するまでエースとして団体を引っ張った。その後、新日本でアントニオ猪木と全日本では故ジャイアント馬場さんらと活躍した。03年の日本武道館大会を最後に欠場し04年の東京ドーム大会で車椅子姿のビデオレターを寄せ、39年の現役生活に別れを告げた。家族は夫人と2男。

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2010年5月25日のニュース