復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

春季大会開幕!被災校同士、半旗の下で延長10回熱闘

[ 2011年5月13日 06:00 ]

岩手・沿岸南地区予選で釜石に敗れた高田は応援席にあいさつ 

春季岩手県大会沿岸南地区予選 高田5-6釜石
(5月12日 住田球場)
 東日本大震災の影響で開催が延期されていた春季岩手県大会沿岸南地区予選が12日に開幕。津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田市の高田高校は1回戦で、同じく被害が深刻だった釜石と対戦し、延長10回の末、5―6で敗れた。今後も金銭的な問題や練習場の確保など厳しい環境は続くが、今夏は左袖に「陸前高田」の文字が入った新ユニホームで戦う。

 ようやく迎えた公式戦。試合中だけは震災のことを頭から離し、ひたすら白球に向き合った。しかし、結果は延長10回に勝ち越し点を奪われての惜敗。就任6年目で春秋通じて初めて県大会出場を逃した佐々木明志(あきし)監督はナインをねぎらった後、静かに試合を振り返った。

 「何とか粘ったけど、まだまだ力不足ですね。外で野球をやれたのは10日ぐらいなので、あまり多くを求めるのは酷だと思います。それでも選手はいつも通り元気に明るくやってくれました」

 球場には半旗が、スタンドには「がんばろう岩手 とどけ白球、三陸へ」ののぼりが掲げられた。通常の大会とは違う雰囲気の中で行われた初戦。初回に先制されたが、2回に押し出し四球で同点。1―2の6回には相手のミスにも乗じて逆転し、三たびリードされた8回にも犠飛で追いつく粘りを見せた。しかし、8安打で15残塁を喫するなど好機にあと1本が出なかった。「やはりバットを振り込んでませんから振りが鈍いし、初球から打ちにいく勇気がありませんでしたね」と指揮官は完敗を認めた。

 忘れもしない3月11日の午後2時46分。まさに練習を始めようとしていた矢先だった。突然の大地震に加え、その後には見たこともない大津波が襲ってきた。高台にある野球部グラウンドには次々と住民が避難してくる。その中で大和田将人主将(3年)ら野球部員は老人をおぶって急坂を上り、届けられた布団を黙々と運んだ。「大丈夫です。僕らは野球部ですから」と勧められたストーブにもあたろうとせず、差し出されたおにぎりも他の人に譲るなどして、2昼夜をグラウンドで過ごした。そうして迎えた待望の公式戦だった。

 早大OBの佐々木監督にとっても長い2カ月だった。自らも住居が被災し、避難所に身を寄せる傍らで同僚の教員や部員の安否確認に飛び回った。そんな指揮官を支えたのが早大時代の同期や先輩たち。2学年上だった早実の和泉実監督からは「何が足りないんだ?遠慮しないで言ってくれ」と言われ、恐縮しながら試合用のユニホームが足りないことを伝えた。
 今大会には間に合わなかったが、今夏は和泉監督ら早大OBの有志から贈呈された新ユニホームで臨む。これまでは「IWATE」と刺しゅうされていた左袖の文字は「陸前高田」と記される。「震災もあったので今まで以上に地元の思いを背負っていこうと思います」と佐々木監督は変更の理由を説明した。

 震災から2カ月と1日が経過した。しかし依然として前途は多難だ。仮設住宅が建設中のためグラウンドは使えず、金銭面もかなり厳しい。「正直、どこまでやれるか不安です。でもやれることを精いっぱいやるしかない」と指揮官。震災後の初戦を白星で飾ることはできなかったが、夏に向けた高田高校の戦いは、もう始まっている。 

 ▽岩手県立高田(たかた)高校 1930年(昭5)に高田実科高等女学校として創立。48年に現校名に改称。65年には火災により本校舎が全焼した。野球場は92年に竣工(しゅんこう)。08年(平20)に広田水産と統合し、普通科に加え海洋システム科を新設。昨年10月には創立80周年記念式典が行われた。

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