日めくりプロ野球 1月

【1月16日】1971年(昭46) 女子中高生アイドル島本コーちゃん、赤のトレパンで始動

 2年続けて全国の女子学生は“コーちゃん”に夢中になった。初代は青森・三沢高で夏の甲子園準優勝の太田幸司投手(近鉄)、そして2代目は70年春の第42回センバツで優勝を飾った、和歌山・箕島高の島本講平投手だ。

 「高校三羽ガラス投手」と呼ばれた岐阜短大付高(現岐阜一高)・湯口敏彦(巨人)、広陵高・佐伯和司(広島)とともに、70年11月19日のドラフト会議では目玉となったが、1番クジを引いた南海(現ソフトバンク)が「コーちゃんでイメージアップと観客増」と島本を迷わず1位指名。女子高生とは無縁だった、玄人好みのするホークスの自主トレには黄色い声援が飛んだ。

 この日、中モズ球場でベテラン選手を除く46人とともに島本は始動。南海のチームカラーのダークグリーンのジャージを着ている選手が多い中で、島本はなんと赤のトレパン姿。ただでさえ注目されているルーキーが余計に目立った。

 派手なトレパン姿にいぶかる先輩選手をよそに、大喜びだったのは報道のカメラマンと取り巻きの女子高生。「どこにいるかすぐに分かる」と、いい目印となった。

 ランニングをすれば「島本くーん、頑張ってぇ」、30メートルダッシュでは「他の選手に負けたらあかんよっ」と女子学生から声がかかる。前年の新人王、佐藤道郎投手とトスバッティングをすれば、カメラマンに混じって彼女たちも撮影。太田は“親衛隊”に苦々しい表情をすることもあったが、小麦色の肌に甘いマスクの“南海の美少年”は時折笑顔もみせるほど。それがまた乙女心をくすぐった。

 「(女子学生は)何人来とる?2、300人はおるか?」と、俺には別世界という感じで番記者と話していた野村克也監督が「島本!」と大声で呼び寄せたのは、トスバッティングが終わった頃だった。

 「ティー(バッティング)やってみい」と野村監督は島本に指示。約80球打たせた。高校時代の通算打率は4割3分。甲子園優勝投手ではあるが、一時進学を考えていた早大でも打者として勝負するつもりだった。担当の堀井数男スカウトの島本評も「打者で使ったほうが戦力になる」というものだった。

 「甲子園で優勝した投手や。何か必ず持っとる。まず投げさしてみる」と話していた野村だが、打者としての可能性を自主トレ初日に探ろうとした。腕組みをしながら厳しい視線の野村はつぶやいた。「バットが出るタイミング、スムーズなスイングはアイツがオギャーと生まれてきた時から身についていた天性のもの。努力してつくったスイングとは違う。ワシが高校出たときとは比べものにならんくらいええわ」。この時、野村は投手としての島本をいつ打者に転向させるかを考え始めた。

 転向の時期はそう遠くはなかった。キャンプ中兼任だった島本は3月14日、阪神とのオープン戦に先発。3回3分の2を投げ無安打無失点だったが、5四死球と乱れた。カーブの制球の良さに比べ、直球のリリースポイントがバラバラですべて高めに浮いた。投球数は68を数え、3番に入っていた田淵幸一捕手には2四球だった。「リリースポイントが定まれば、公式戦でも短いイニングで使える」と、実際に球を受けた野村兼任監督はかばったが、野村のハラは決まった。ほどなく島本は野手転向を言い渡された。

 直球には滅法強いが、曲げられるとそれまで…。これが島本の打撃だった。ファームでは成績を残しても1軍レベルの変化球にはついていけなかった。ルーキーイヤーの71年、“コーちゃん人気”の余波で1軍で1度も打席に立っていないにもかかわらず、オールスターのファン投票の一塁手部門で、東映・大杉勝男一塁手を70票差で抑えて出場。セ・リーグのエース級の投手を前に2打席2三振だった。

 74年までの4年間、安打はわずかに2本。その2本が71年10月9日、日生球場での近鉄25回戦で6番初スタメンの時に、元祖“コーちゃん”の太田から放った2打席連続の本塁打というのも不思議な因果である。

 島本の運命が大きく変わったのは、75年6月。シーズン中にもかかわらず、近鉄・佐々木宏一郎投手とトレードが成立した。近鉄・西本幸雄監督が島本の打撃を「いつか必ず開花する」と見込んでのトレードではあったが、野球への情熱を失いかけていた島本はファームでコーチとトラブルを起こしホークスにいずらくなったという側面もあった。

 西本の読みは当たった。鳴かず飛ばずだったホークス時代とは打って変わり、指揮官に期待をかけられていることを意気に感じた島本は76年から3年連続100試合以上出場。打率は低かったが、チャンスでの勝負強さとパンチ力は魅力たっぷりだった。77年には12本塁打をマークし、オールスターには阪急・上田利治監督の推薦で堂々出場。6年前、人気だけで出場し、逆にさらし者になった苦い経験を払拭した。

 80年代に入ると代打の切り札的存在になり、80年は打率3割5分1厘で近鉄V2に貢献。82年には打点40、勝利打点6を挙げた。

 「まだまだこんなもんやない」と西本監督は島本を買っていたが、83年以降は若手の台頭などで出場機会が減り、85年に座骨神経痛が悪化したこともあって引退。通算454安打60本塁打。「南海に1位指名された時もそれほどうれしくなかった。どうしてもプロ野球選手になりたいという強い気持ちもなく、誘われるままに甘い気持ちでプロに入ったのが間違いだった。結局、野球がそれほど好きではなかったんだ」と島本は後年振り返っている。(08年1月16日掲載分再録 一部改変)

[ 2011年1月16日 06:00 ]

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