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マルチプレーヤーとして19年間現役で活躍した高橋。通算790安打、60本塁打を放った(写真はロッテ時代)
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【南海7−0日本ハム】西鉄に3連覇をもたらした怪童・中西太はその16年後、義父・三原脩が球団社長となった、日本ハムファイターズの初代監督に就任した。四国・徳島出身の大社義規オーナーが会社を全国区にするため、さまざまな話題を振りまいたが、パ・リーグ加盟1年目の74年は最下位。それでもファンサービスの精神は、パ・リーグのどの球団よりも旺盛だった。
後楽園球場での南海後期13回戦。完全な消化試合に集まった7000人の観客を前に三原社長、中西監督は1人の選手に全ポジションを守らせた。11年目の高橋博士捕手。投手以外、すべて経験がある器用さを買われての指名だった。
「3番・一塁」でスタメン出場した高橋は1回ごとに捕手→三塁→遊撃→二塁→左翼→中堅→右翼と転々。2回には捕手として二盗を刺し、3回は三塁でタッチプレーをこなし、4回は遊ゴロをさばき、7回も中飛を処理した。
打っては4打数1安打の高橋は9回、とうとう「高校(宮崎商高)時代かじっただけ」の投手として登板。当時のパ・リーグはまだDH制が採用されていなかったため、野崎恒男投手が打席に入った。
2球続けて完全にボールとなり、カウント0−2。周りは笑って見ているが、本人は焦るばかり。3球目、野崎がバットを出し打球はセンターへの平凡な飛球。汗だくになりながら一死を取ると、中西監督が笑顔で斎田忠利球審に渡辺秀武投手との交代を告げた。
「ストライクを取るのがあんなに難しいとは…。ストライクが入らないときの投手の心理状態がよく分かりました。捕手のサインも見えずらいんですね。はっきり出してやらないと。勉強になりました」。大リーグでもそれまで2例しかなかった、日本初の1試合全ポジション出場は、冷や汗をかきつつも、収穫も少なくなかったようだ。
64年に高校日本選抜の大型捕手として南海へ入団も、翌年戦後初の三冠王を獲得した野村克也捕手の厚い壁に阻まれ、出場機会を得るため、パンチ力のあるバッティングを生かし野手に転向した。
高橋の万能選手ぶりを証明するのがただ1度出場した、南海時代の71年オールスターゲーム。前年の捕手登録から内野に転向していたが、コンバート2年目に2割6分5厘、9本塁打の成績で遊撃手としてファン投票選出で球宴出場。試合では三塁手、二塁手として使われた。
南海から日本ハムへ移籍した3年目の74年、5年ぶりにマスクをかぶり捕手として復活。その後、ロッテに移り現役生活は19年。捕手で690試合、それ以外のポジションで448試合に出場した。
ちなみにこの試合で日本ハムはベンチ入り25人の選手全員が出場。投手の1試合10人起用も初めてのことだった。