 |
巨人初の4連勝日本一を達成した原監督は就任1年目。ジャイアンツの新たな黄金時代を予感したファンも多かったが…
Photo By スポニチ
|
【巨人6−2西武】1965年(昭40)から始まった不滅の9連覇時代にもなかった、巨人の日本シリーズ無敗V。「Show the Spirit!」を掲げた原辰徳監督就任1年目での日本一は4試合で29得点を叩き出し、超重量打線の力をまざまざと見せつけたシリーズだった。
「巨人にとって特別な相手です」。シリーズ前、西武に対して原監督はこう言い切った。自身が現役時代4回戦って1回しか勝てなかったレオ軍団。特に90年のシリーズでは原自身もチームも屈辱を味わった。4試合15打数4安打で打点0。4タテを食らった“戦犯”扱いされた。
巨人がシリーズで1つも勝てずに敗れたのは過去3回。うち2回が西鉄時代を含めたライオンズ(1957年は4敗2分)。指揮官が特別な相手とする背景には、約半世紀も前からの苦い歴史があった。
もう1人、巨人と西武の日本シリーズに特別な感慨を抱いている男がいた。清原和博一塁手。87年、王貞治監督率いる巨人を破り2年連続日本一になった西武球場での日本シリーズ第6戦。西武の一塁を守っていたプロ2年目の清原は、あと1人で優勝という場面で、人前はばからず泣いた。
超が付くほど有名になったシーンだが、この涙に至るまでの清原と巨人にまつわるストーリーを、多くの野球ファンが知っていたため、20歳の若者の純朴さにもらい泣きした。
あれから15年。20歳の青年は35歳のベテランになり、所属チームは“初恋”の巨人に代わっていた。左太もも裏を痛め、試合に出られる状態ではないにもかかわらず、背番号5は一塁手として、あるいは指名打者として登場。2本塁打を打ち、第4戦ではダメ押しの右前適時打を放った。
「西武とシリーズで戦うのは、ひとつの夢だった。シリーズという最高の舞台で西武の選手と戦えるのがうれしかった」と清原。自分を育んでくれた球団への恩返しは、優秀選手として表彰されるほどライオンズにとってキツいものだった。当時、巨人にいた工藤公康投手とともに、清原はセパ両リーグで4戦全勝をプロ野球史上初めて経験したプレーヤーにもなった。
かつて“常勝軍団”の冠がつけられた西武は93年に日本一を逸して以来、10年で5度目の日本シリーズの敗北となった。5回連続の敗退はV9時代の巨人に挑んで跳ね返された阪急と並びワーストタイ(当時、06年に中日が6回連続を記録)。シリーズ防御率7・41もシリーズワースト記録。松坂大輔、西口文也ら先発投手陣の防御率は11・77と、守りの野球を標榜してきた伊原春樹監督にとってはかなりショックの4連敗だった。
「原君とこれから10連覇だ」と渡辺恒雄オーナーは上機嫌だったが、優勝の喜びも束の間、主砲・松井秀喜外野手がFA宣言して米大リーグ、ヤンキースへ。日本一から1年足らずでの原監督解任など迷走したジャイアンツはセ・リーグの覇権を奪回するまで5年の歳月を費やすことになった。