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日めくりプロ野球6月

【6月26日】1979年(昭54) チーム最大の危機を救った“泣きながら”のバックホーム!

近鉄のパ・リーグV2の切り込み隊長として活躍した平野。たたき上げの選手らしく、ドラフト上位指名投手との対戦にはことのほか強かった
近鉄のパ・リーグV2の切り込み隊長として活躍した平野。たたき上げの選手らしく、ドラフト上位指名投手との対戦にはことのほか強かった
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 【近鉄1−1南海】大阪球場の3万2000人の観衆から一斉に悲鳴に似た声が上がった。8回裏、二死一、二塁。南海の代打・阪本敏三内野手が近鉄・村田辰美投手から放った一打は、ピッチャーの足元を抜けセンターに達した。

 痛烈な当たりではなかった。緩いゴロが芝生の上をコロコロ転がっていく勢いのない打球に、大きくリードを取っていた二塁走者の定岡智秋遊撃手は、勝ち越しの生還を頭に描きながら三塁ベースを蹴った。近鉄のセンターは8年目の平野光泰。ガッツが取り得の猪突猛進型の選手だった。

 平野が打球をキャッチしたとき、定岡はすでに三塁を回っていた。悠々生還。近鉄ベンチ、関係者、ファンの目はあきらめの眼差しで見つめる中、平野だけは怒りと悲しさの感情がこみ上げてきた。

 「何のために苦しい練習をしたんや。こんなヘナチョコのヒットで優勝できんのか!」。そう思うと涙がこみ上げてきた。手荒く握った白球をホームで待つ梨田昌崇捕手に返球した。ダメだと分かっていても、それが外野手の習性だ。

 矢のような送球、とはよく形容される野球の常套句だが、平野の気持ちが乗り移ったバックホームは矢だった。大阪・明星高時代は投手として甲子園に出場した男の渾身の送球は、梨田が構えたキャッチャーミットへダイレクト、ドンピシャリのストライク。これ以上ない返球が定岡の目の前を通った。

 砂塵が舞った。一瞬の静寂の後、球審の久喜勲パ・リーグ審判部長の右腕が上がった。「アウト!」。久喜球審の大きなジェスチャーに、場内は地鳴りのような歓声がじわじわと沸き上がった。まさに起死回生のバックホーム。南海ベンチは呆然、近鉄ベンチは大騒ぎ。力が抜けてしまって立てないのか、それとも冷静だったのか、近鉄の“闘将”西本幸雄監督だけは、にベンチに座ったままだった。

 近鉄にとってはただの南海戦ではなかった。79年前期最終戦。しかも勝つか引き分けるかで前期初優勝が決まる一戦だった。逆に負ければ、阪急の逆転V。5月末時点で独走状態だったバファローズは、6月9日のロッテ戦で主砲・チャーリー・マニエル外野手が死球であごを複雑骨折すると失速し、瀬戸際まで追い詰められていた。平野の涙のバックホームで近鉄はかろうじて引き分けに持ち込み、初の前期優勝を飾り、10月に後期優勝した阪急を倒して、球団創設30年目にしてパ・リーグを初めて制した。

 71年、社会人クラレ岡山からドラフト6位入団した平野。長い下積みを経験したが、西本監督が思い切りのいい打撃と守備を買い“ガッツマン”と呼んで、77年からセンターのレギュラーに定着した。シーズン中は野球に集中するため、自宅の庭に建てた4畳半のプレハブで家族と離れ“別居生活”。近鉄の79、80年優勝時のトップバッターとして活躍した。

 “座右の銘”は「野球は技術やない」。詰まっていても、執念でヒットにしてしまう打撃にパの投手は手を焼いた。大試合に強く、80年はオールスター第2戦(7月20日、川崎)で大洋・平松政次投手から2点本塁打を放ち、MVP。同年のロッテとのプレーオフでも8打数6安打5打点で最優秀選手となった。

 80年7月17日、西宮での阪急後期3回戦でプロ野球32人目のサイクルヒットも達成。85年、戦力外通告をされ、ヤクルトへの移籍話もあったが、すっぱりと引退した。通算1055安打107本塁打。現役を退いてからは、飲食店を経営しながら解説者を務めた。

1979年6月26日 南海−近鉄前期13回戦 大阪 近鉄11勝1敗1分
 
1
2
3
4
5
6
7
8
9
 近  鉄
 南  海
投 手
 近  鉄 村田−梨田
 南  海 佐々木、金城−黒田、中出
 
本塁打  
三塁打  
二塁打 藤原(南)
近 鉄  8安打3三振2四死球 1盗塁0失策10残塁
南 海  8安打4三振0四死球 1盗塁2失策5残塁
球審・久喜  試合時間3時間32分  観衆3万2000人
  

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