日めくりプロ野球2月
【2月26日】1983年(昭58) メジャー314本塁打の超大物、挨拶代わりの3ラン
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故障が多く、ロートルと言われても仕方がなかったスミスだが、ここ一番のチャンスでは期待に応えた。背番号7はレッドソックス時代につけていたのと同じ番号
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2人の子供の教育費と前夫人に払う慰謝料込みで総額70万ドル(約1億7500万円)と、当時としては大型契約を結び、巨人入りした元メジャーリーガー、レジー・スミス外野手が宮崎キャンプ初の紅白戦に出場。堀内恒夫投手のシンカーを軽々と右翼スタンドへ放り込む3点弾を放った。
推定飛距離は135メートル。「完璧だね。あの打球なら(古巣サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地)キャンドルスティクでもホームランさ。飛距離でお釣りがくるよ」と海からの逆風で本塁打が出にくい球場を引き合いに、来日初アーチがいかに素晴らしかったかを語るスミス。球団からプレゼントされたウォークマンで大好きなジャズを聴きながら、上機嫌で宿舎に戻った。
かつてベロビーチキャンプでドジャースに在籍していたスミスとバッティング談義を延々2時間にわたって繰り広げた王貞治助監督も大リーグ通算314本塁打の助っ人にうなった。「芯を食えばあれくらい飛ばすんだな。甘い球を逃さず、しかも積極的にファーストストライクから行く。一流打者の鉄則が守られている」と絶賛。スミスがまだレッドソックス傘下のマイナーリーグにいた時、師と仰ぐ通算打率3割4分4厘の伝説の強打者テッド・ウィリアムス打撃コーチからのアドバイス「打ちやすい球がきたら迷わず打て。腰を使って素早く振り抜け」を20年間実践し続け、身に着けたバッティングだった。
前年の82年、130試合目の最終戦で中日に優勝をさらわれた巨人にとって、スミスはV奪回の使者だった。大リーグ、ジャイアンツと契約が折り合わずFA宣言したスミスに巨人は早くから接触。スイッチヒッターとしてはあのミッキー・マントル(ヤンキース)の536本に次ぐメジャー歴代2位(当時)の本塁打数を誇る選手は、ウインターミーティングで他球団が交渉に乗り出すとみられ、獲得の可能性は低かった。
ところが、右肩を手術し満足に送球できず、両ヒザの古傷は癒えておらず走れない、という判断を大リーグ各球団は下したことで、巨人入りへ。打つだけの高額年俸の選手はいらないと、どこも手を出さなかったことで「東京ジャイアンツは高い買い物をした」と、メジャーのフロント各氏は首をかしげたものだった。
加えて、スミスの性格を問題視するチームもあった。66年(昭41)から73年までレッドソックスに在籍したスミスは、ここで理不尽な人種差別に遭う。当時、黒人に対して偏見が強かったボストンで、スミスは不振になるとレ軍ファンからブーイングされながら打席に入っていた。時には試合中にスタンドへ乱入し、ファンを殴るなどして球団から罰金を取られたこともあった。耐え切れなくなったスミスは差別問題に対して政治的な活動もするようになり、ファンと真っ向から対立した。結局、野球が落ち着いてできる環境を求めボルチモア・オリオールズ、ロサンゼルス・ドジャースと渡り歩くことになった。
普段は紳士でチームメイトのもめ事の仲裁に入り、リーダーシップを発揮。ドジャース時代の同僚で生年月日が同じ(1945年4月2日)の通算324勝右腕ドン・サットン投手は「彼こそがミスター・ドジャースだ」と移籍選手ながら、スミスが他のナインに与えた影響を褒め称えていた。
裏を返せば“お節介”でもあった。特に打撃理論に関しては独自の理念があり、コーチを差し置いて直接若手選手に指導。メジャー各球団はスミスが起こしかねない摩擦を恐れ、獲得を見送っていた。
巨人でも付いたあだ名が「ティーチャー(先生)」。一度教えだしたら止まらない。キャンプ中の宿舎では若手選手にバッティング理論を講義し、途中で眠ってしまった選手を起こしさらに講義を続けたという伝説もあるほどだが、自分に対していろいろ言われるのは嫌いで、こと打撃に関しては「サダハル・オーは最高の打者で理論もしっかりしている」としながらも、そのアドバイスに耳を傾けることはなかった。
83年、巨人は4番・原辰徳三塁手、5番・スミスの打順を組みセ・リーグ優勝。メジャー関係者が指摘した通り、けがでの欠場が目立ち102試合出場がやっと。しかし、その打撃は衰えておらず75安打のうち、28本が本塁打。打点72はさすがだった。
来日時、105枚のLPレコードを持参したことで分かるようにかなりの音楽好き。楽器もピアノ、ギター、フルート、ドラム、クラリネットなどなんでもこなすほどで、それを聞いたレコード会社が歌手の松山千春プロデュースでレコード製作を持ちかけ、スミスはLPをリリースした。
セスナ機操縦、スキューバダイビング、乗馬、馬の調教、テニスに料理と多趣味。巨人を2年で退団後は旅行代理店などを経営。94年にドジャースの打撃コーチとして現場復帰した後は、米国五輪チームやWBCの米国代表でも打撃コーチを務めた。
紅白戦ながら“来日1号”を打たれた、堀内は04年オフ、巨人監督2年目を迎えるにあたって野球理論では卓越したものを持つスミスを巨人のヘッドコーチ格で招へいしようとした。しかし、巨人時代に再婚した妻の病状が思わしくなく、スミスは来日を断念。話は幻に終わった。
“ティーチャー”スミスは巨人を退団するにあたって、当時の主軸、現巨人監督の原にこんなアドバイスをして別れている。「野球は力勝負ではない。大切なのはファイティングスピリッツだ。タツに必要なものはそれだ」。巨大戦力を誇る巨人は今年、力勝負を挑もうとしている。開幕まであと1カ月、原監督は“先生”の言葉を今でも覚えているだろうか。
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