日めくりプロ野球12月
【12月17日】1973年(昭48) えっ、パッカーズ?日本ハムの愛称検討会秘話
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「ファイターズ」命名にかかわった日本ハム初代監督の中西太。成績は振るわなかったが、ファンサービスは12球団でも指折りだった
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ジャガーズ、イーグルス、パンダース…。6人の男が東京・六本木の一室にこもり、約12万8000通のはがきの山を前にして約2時間悩み抜いた。
73年1月、東映から球団経営を譲渡された日拓ホームフライヤーズがわずか1シーズンでチームを手放すことになり、これを大阪に本社がある日本ハムが引き受け、球団経営に乗り出すことになって1カ月強。47年(昭22)東急誕生から付けてきたフライヤーズの看板を外し、新しい愛称を決定。「戦士」を意味する「ファイターズ」になった。
選考に当たったのは、大社義規オーナーを筆頭に、この年ヤクルトの監督を辞して同じ四国出身のオーナーの下で球界初の現場出身のGMとなった三原脩球団社長、三原の娘婿の中西太監督ら球団幹部4人と、張本勲外野手、大杉勝男内野手、大下剛史内野手の主力選手の計7人。わずか2週間の公募で寄せられたはがきに加え、オーナー案、球団サイドで考案したものを検討した上での発表となった。
実はファイターズ、ファンによる応募では順位にして10番目で、最多ではなかった。一番人気だったのは「ジャガーズ」。次いで「イーグルス」「フェニックス」と04年に近鉄がなくなり、新規参入時に登場した名前が並んでいた。
「今までなかったチーム名にしよう」という大社オーナーの前提条件で、選考は始まった。1位のジャガーズは「50年代に阪神のファームが名乗っていたことがある」と三原社長。イーグルスも戦前、職業野球時代に存在していたことから、却下となった。世相を反映して、中国から日中国交正常化を記念してこの年、上野動物園に贈られたパンダにちなみ「パンダース」が5位に入るなどしたが、「野球チームとしてはかわいい名前。迫力がない」と大社オーナーが難色を示した。結局、勝者を意味する4位の「ウイナーズ」と10位の「ファイターズ」が全会一致で最終選考に残った。
これに大社オーナーが考えた「パッカーズ」と球団案の「ハンターズ」を加えた4つに絞られることになった。オーナーの意見を尊重すれば、最有力は「パッカーズ」だった。「ハムを詰める人」という意味で、日本ハムは米国で「ニッポン・ミート・パッカーズ」を名乗っていた。大社オーナーの自社製品に対する愛着がひしひしと感じられたが、「日本語に訳しにくいのでは」との意見が出た。なおもプッシュするオーナーに、「ファンから応募した意味がなくなりませんか」と三原社長がひと言。これで流れは決まった。「うーん、いいと思ったんだけどなぁ」と残念そうなオーナー。続く「ハンターズ」も、応募での人気は高くなく消えることになった。
決め手は言葉のイメージ、強さだった。「ウイナーズよりファイターズの方が力強い。子供でもファイトという意味は知っているし、大阪の本社から関東に乗り込もうとする意気込みに合う」とオーナーが最終決断。これで「ファイターズ」が誕生した。
当初「5万通もくれば御の字」としていた球団側だが、倍以上の応募となった。これだけの数を集めたのは、採用ニックネームを付けた応募者の中から抽選で1人にハワイ旅行と74年の米オールスターゲームに招待という懸賞が付いていたからだ。当時はまだ1ドル=300円台の時代。海外旅行なんて高嶺の花だった時代にこの賞品は魅力だった。
大社オーナーが抽選した結果、岡山県の女子高生(当時16)が当選。球団職員がその旨を伝えた。「スポーツにはファイトという言葉がよく使われるので、軽い気持ちで応募したのが、まさか選ばれるとは。東映時代からのファンで特に大杉さん、新美さんのファンです。アメリカ旅行ができるなんて夢みたい。来年はぜひファイターズに優勝してほしいです」と女子高生は興奮気味に話した。
希望を胸にスタートしたファイターズだったが、1年目の74年は勝率4割も切り、最下位。翌75年も最下位となり、中西監督は義父三原球団社長によって更迭され、“親分”こと大沢啓二監督が就任。ファイターズの命名選考にあたった、張本は巨人へ、大杉はヤクルトへ、大下は広島へそれぞれトレード。「フライヤーズ色を一掃したい」という大社オーナーの指令だった。懸賞が当たった女子高生が好きだった新美敏投手も77年に広島へ移籍した。
張本、大杉、大下は新天地でいずれも優勝に貢献。ファイターズを見返す形となった。そのファイターズがパ・リーグで優勝したのは、ネーミングから8年の月日が過ぎた81年。日本一にいたっては、トレイ・ヒルマン監督(08年から大リーグ、ロイヤルズ監督)が指揮した06年まで33シーズン待たなければならなかった。
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