日めくりプロ野球12月
【12月28日】1967年(昭42) 西鉄投手だったジャンボ尾崎、退団申し出に球団社長キレる
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池永とともに将来を嘱望された尾崎。プロ野球選手としては花開かなかったが、ゴルファーとしての活躍は周知のところ
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07年11月13日、西鉄の黄金時代を支えた通算276勝投手、稲尾和久投手が亡くなった。
「西鉄では3年しか一緒にいられなかったけど、よくかわいがってもらったよ。2年目のオフに稲尾さんのふるさとの別府に連れてってもらって、ミニキャンプを張ったこともあったんだ」。故人を懐かしんだのは、プロゴルファーの尾崎将司。あのジャンボ尾崎がかつて西鉄ライオンズの選手だったことを知っているプロ野球ファンも年々少なくなりつつあるが、プロポーラーも考えていた尾崎にゴルフを勧めたのは実は稲尾だった。
獲得に3000万円かかったとされる尾崎正司(当時)投手がゴルファー転向を球団に申し出たのは67年末。3年間で17試合0勝1敗、打者としてはわずか2安打の成績に、出した結論は野球から身を引くというものだった。
徳島海南高で64年の春のセンバツに優勝。荒削りながら速い球が投げられる魅力たっぷりの右腕だった。尾崎の背番号は22、20番を付けた63年の同大会優勝投手、下関商高・池永正明投手とともに西鉄期待の星として入団。稲尾が全盛期を過ぎ、大黒柱を探していた西鉄にとって2人は希望の星だった。
ライバルであり、友人であった2人のリレーで勝った試合は、ルーキーイヤーの65年6月13日、西宮球場での阪急7回戦。5回まで5失点の先発池永を7回から尾崎がリリーフ。ダリル・スペンサー二塁手ら強打のブレーブス打線を9人パーフェクトに押さえ、見事な火消し。現在ならセーブの記録が付くものだった。
2人が同じように活躍した時期は短かった。同年新人王を獲得した池永に対し、制球が安定しなかった尾崎はファームでの生活が長くなった。尾崎が足踏みしている間に、池永は3年間で通算58勝。中西太監督の指示で打者に転向した尾崎だったが、42打席で24三振と結果は出なかった。
「池永に勝ちたいという気持ちが野球を辞める理由だった。野球では負けたけど、違う世界ではあいつを追い抜く。そんな気持ちだった」と尾崎は、12月23日に中西監督に退団の意思を伝えた。
球団側は慌てた。大金を使って入団させた西鉄としては収まりがつかない。仕事納めの28日、国広直俊球団社長は球団事務所で尾崎説得を試みた。何度も思いとどまったほうがいいと力説したが、尾崎が聞く耳を持たなかった。とうとう激怒した国広社長は、思わず声を荒げた。
「そんな勝手なことは許さない。ユニホームを脱ぐんだったら、契約金と3年間の年俸そっくり返してもらおう」。
大人気ないといえばその通りだが、当時西鉄は56年(昭31)からの3連覇時に比べ観客動員が減り、球団の経営は苦境に立たされていた。高騰する年俸を払いきれなくなり、生え抜きのレギュラー選手や主戦投手を次々と移籍させていてるさなかに、大金で獲得した若い選手の言いなりになるわけにはいかなかった。
尾崎はあっけらかんと言い返す。「契約金なんてもう使って一銭も残っていません」。国広社長は次に泣き落としにかかった。「まあ、ゴルファーになるなんて言わないで、野球で頑張れよ。オレの顔も少しは立ててくれよ。困るんだよ」。
話し合いは平行線をたどり、結論が出ないまま越年。最終的には尾崎は退団を勝ち取った。しかし、西鉄の息のかかった九州では活動できなくなり、プロを目指して修行していたカントリークラブを突然クビになった尾崎は、婚約者を残して独り千葉のカントリークラブへと旅立っていった。
野球での力の差は成績の上でははっきり出てしまったが、運命は分からない。尾崎がプロゴルファーのテストに合格したのは70年4月。その翌月に池永はプロ野球界の八百長「黒い霧事件」で球界を永久追放になった(現在は復権)。それでも2人の友情は変わらず、尾崎は九州に行くたびに池永が営むスナックに顔を出す。2人ともシーズンオフに行われるマスターズリーグに出場、オールドファンに健在な姿を見せた。
余談ではあるが、尾崎の弟の健夫も投手として、71年のドラフト3位でヤクルトに指名されている。交渉の窓口はジャンボだったが、既に兄の影響を受け3年生の夏の大会終了以降はゴルフ三昧の健夫。兄の後を追うようにゴルフの道を志し、入団は実現しなかった。
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