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日めくりプロ野球8月

【8月31日】1975年(昭50) 0勝7敗左腕新浦寿夫の突然変異!1安打完封勝利

打たれても打たれても長嶋監督が起用し続けた新浦は、翌76年に期待に応え11勝。その後も長嶋ジャイアンツの投手陣の柱となった
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 【巨人5−0ヤクルト】「監督、もう投げられません」。75年8月12日、巨人−阪神14回戦が終わった後、後楽園球場内にあった選手浴場で身長1メートル81の左腕投手は涙を流して訴えた。

 新浦寿夫、24歳。「ピッチャー、新浦」がコールされると、三塁側の応援席は拍手の嵐、一塁側の巨人ファンは次々に席を立ち、下を向きながら家路についた。最下位にあえいだ長嶋巨人1年目の75年。そんな光景が後楽園球場で繰り返された。

 “投げられない”発言から約3週間後の8月最後の日曜日。ファームから再度1軍へ昇格した新浦は、神宮でのヤクルト23回戦に先発。初回、永尾泰憲遊撃手に右中間三塁打を打たれたものの、その後は無安打ピッチング。それまで0勝7敗の成績がウソのように、12奪三振で完封勝利を挙げた。

 往年の中日のエースで、当時解説者だった杉下茂氏にアドバイスを請い、フォームを改善。軸足に重心を十分乗せてから投げることに留意すると、球威が増した。

 静岡商高のエースとして、第50回大会(68年)の夏の甲子園に出場。興国高(大阪)に敗れはしたが準優勝。韓国籍であることから、当時のドラフト制度では指名の対象外だったため、各球団が争奪戦を繰り広げた末、巨人に入団した。

 川上哲治監督も大器と認めていたが、マウンドに上がると別人のように気が弱くなる“ブルペンエース”の性質が災い。安定した成績が残せないまま、チームの指揮官は長嶋監督に代わっていた。

 新浦の75年の成績は2勝11敗。しかし、この日の完封で自信をつけたの間違いなかった。

 翌76年、長嶋巨人は130試合目に広島でV1を達成し、前年の屈辱を拭い去った。新浦も75年の負け数と同じだけの11の白星を重ね、優勝に貢献。先発、中継ぎ、抑えとまさにフル回転。負けても、負けても「新浦はウチの柱になる投手だから」と使い続けた、長嶋監督の信念に応えた。その出発点は夏休み最後の日のシャットアウト劇にあった。

1975年8月31日 ヤクルト−巨人23回戦 神宮 ヤクルト13勝10敗
  1 2 3 4 5 6 7 8 9
巨  人
ヤクルト
投 手
巨  人 ○新浦(1勝7敗)−吉田
ヤクルト ●井原(6勝5敗)、会田、榎本、浅野−大矢
 
本塁打  
三塁打 富田、柳田(巨)永尾(ヤ)
二塁打 河埜2(巨)
巨  人 9安打7三振4四死球  0盗塁0失策8残塁
ヤクルト 1安打12三振1四死球 0盗塁3失策2残塁 
球審・丸山 試合時間2時間33分 観衆4万1000人
   

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