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日めくりプロ野球08年8月

【8月18日】1973年(昭48) V9に望みつなぐ“コンコルド”が放ったプロ初の三塁打

主に左の代打の切り札として70年代から80年代の巨人で活躍した淡口憲治。76年の日本シリーズでも本塁打を放った
主に左の代打の切り札として70年代から80年代の巨人で活躍した淡口憲治。76年の日本シリーズでも本塁打を放った
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 【巨人4−3大洋】負ければ4連敗で貯金ゼロ。3位とはいえ、9連覇に赤信号が点滅し続けている巨人にとって、3年目の淡口憲治外野手がライナーで右中間へ放ったプロ初の三塁打は、まさに起死回生の一撃となった。

 後楽園球場での大洋19回戦、3−3の同点で迎えた9回裏、川上哲治監督が代打に指名。下手投げの大洋・山下律夫投手に対してとっておきの左のピンチヒッターは、期待通りの当たりを飛ばした。「三塁打なんてプロに入って初めて。(三塁コーチャーの)牧野(茂)さんの手がグルグル回っているのだけれど、足がガクガクして前に進まなくて困った」と淡口。一死後、2番に入っていた末次民夫右翼手の左犠飛で淡口の代走・槌田誠外野手が生還し、巨人はシーズン2度目のサヨナラ勝ち。貯金2とし、首位中日に1・5差と迫った。

 5回に同点の17号2点本塁打を放った長嶋茂雄三塁手も「きようは淡口をほめてやってよ。すごいねぇ、あんな火の出るようなライナーで外野を抜けてくんだから」と、まだ21歳の若手選手をほめちぎった。初のお立ち台に立った淡口はどうしていいかも分からず、観客の求められるままに手を振り、帽子を振り…。「これで打たなきゃ、ファームに戻されると思ったら必死になった」と苦しい多摩川の2軍生活が死ぬほど嫌だったことが、劇的な一撃につながったことを明かした。

 兵庫・三田学園高で通算27本塁打のスラッガーは70年、巨人のドラフト3位。知名度は夏の甲子園4強、1位の湯口敏彦投手(岐阜短大付、現岐阜一高)、2位の高松商・大北敏博内野手に譲ったが、担当の前川八郎スカウトが法政大進学の決まっていたのを強引に口説き落としプロ入りさせたほど惚れ込んでいた。

 それだけのことはあった。宮崎キャンプで2軍を視察した川上監督は「バットスイングのスピードがもう1軍レベル」と、湯口、大北には目もくれず、いち早くルーキーイヤーのオープン戦から1軍に抜てき。落ち着いた物腰から「年金」というニックネームもついたが、そのバットスイングの速さはチーム一で長嶋が「コンコルド」とネーミングしたほどだった。

 1軍と2軍を行ったり来たりをしていたのが、殊勲の三塁打を放ったこの頃。スイングは文句なしだったが、体が早く開く欠点があり変化球に対応できなかった。それを克服するために、構えた段階から腰を内側にあらかじめ入れておくフォームで球を待った。これが淡口のトレードマークとなり、長嶋巨人がV1を達成した76年、尻を振って打席に入るものまねが子どもたちの間で流行した。巨人での2、3年目に松井秀喜(ヤンキース)や吉村禎章(巨人2軍監督)と同じ、背番号55を付けていたことはあまり知られていない。この番号を付けて1軍で活躍した、巨人の事実上1号選手だった。

 巨人、近鉄で現役19年、通算1076安打で本塁打は118本。規定打席に達したのは巨人時代の83年のみ(3割2厘、13位)だったが、あのトレードマークとともにトレード先の近鉄でも活躍したことで、強く印象に残る選手であった。

 巨人、日本ハムで打撃コーチを務め、左打者育成には定評がある。08年はヤクルトの2軍打撃コーチ。

1973年8月18日  巨人−大洋19回戦  後楽園  巨人10勝8敗1分
 
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9
 大  洋
 巨  人
投 手
 大  洋 ●山下(5勝9敗)−伊藤
 巨  人 横山、関本、○小川(3勝)−吉田
 
本塁打 長嶋17号(巨)
三塁打 末次、淡口(巨)
二塁打 長嶋(巨)
大 洋  5安打2三振5四死球 0盗塁0失策4残塁
巨 人  10安打2三振4四死球 0盗塁1失策8残塁
球審・丸山  試合時間2時間40分  観衆5万人
   

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