阪神ドラ1・森下翔太 少年野球で出場停止…その裏で父が感じた、アスリートに必要不可欠な「芯の強さ」

[ 2022年11月26日 05:15 ]

阪神新人連載「七人のトラ侍」 ドラ1、中大・森下(2)

小学校時代、野庭日限フェニックスに所属した森下。監督で父の善文さん(左)と笑顔で記念撮影(家族提供)
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 J1の横浜F・マリノスのジュニアチームへの入団がかなわなかったこともあり、5歳の時に翔太の本格的な野球人生がスタートした。当時、お気に入りだったおもちゃは、保育園の先生が新聞紙を丸めて作ってくれたボールとバット。投げて、打つ。それがとても楽しかった。その頃から父・善文さん(54)と近所の少年野球チームの練習を見学。小学校入学と同時に軟式野球の「野庭日限(のばひぎり)フェニックス」へ入団したのは、自然な流れだった。

 最初に守ったのは今と同じ外野手だった。「野球は周りの子よりもうまかったので、自信を持ってプレーしていた。息子は肩が他の子に比べたら強かったので」と善文さん。小学2年生の途中からは、地肩を買われて捕手に転向した。

 その頃、学校では大好きだったドッジボールでも大活躍した。翔太の存在がモノを言い、チームは連戦連勝。「翔太の投げる球は速い」。クラスの人気者になると、きわめつきは女子チームに一人だけ入ったハンデ戦だ。持ち前の“剛速球”で次々に男子チームを圧倒。勝利に導くパフォーマンスに、黄色い声援に包まれた。

 「監督になってからは息子だけを見るわけにはいかないので、チームのレベルを上げないといけなくなった」
 3年生になるとそれまでコーチとして指導に当たっていた善文さんが監督に就任。グラウンドでは監督と選手の立場となった。時は進み、5年生になった翔太は上級生のチームでもスタメンとして活躍。しかし、「負けん気」の強さがある大事件を引き起こした。

 横浜市港南区大会の決勝。捕手の翔太はストライクと確信していたゾーンギリギリのコースをボールと判定され、首をかしげた。そのままミットを動かさず、捕球した位置で数秒間停止。後ろを振り返り、球審をにらみ続けた。すると、その様子をバックネット裏で見ていた大会本部の役員が「なんだあの態度は!」と一喝。怒鳴り声がグラウンド内に響き渡った。

 チームが敗れただけで、話は終わらなかった。少年野球では異例となる次戦の出場停止処分を食らった。「区大会で準優勝すれば、市大会に出られるんですけど、そこも駄目になった」。善文さんの謝罪行脚で何とか事を収めたが、次戦に該当する市の大会には出場できなかった。勝利への執着心が招いた大きな代償…。その一方で、父はアスリートに必要不可欠な「芯の強さ」を感じ取った。

 ◇森下 翔太(もりした・しょうた)2000年(平12)8月14日生まれ、神奈川県横浜市出身の22歳。小1で野球を始め日限山中では「戸塚シニア」でプレー。東海大相模では1年夏から中堅手としてベンチ入りし、3年春に選抜出場。中大では1年春、4年春にベストナイン。1メートル82、90キロ。右投げ右打ち。

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