【内田雅也の追球】人情味あふれる親分肌…江夏や田淵に「コロンボ」と呼ばれた名物記者、逝く

[ 2022年11月17日 08:00 ]

田中二郎氏(左)とスポニチ評論家・鈴木啓示氏(右)
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 江夏豊も田淵幸一も「刑事コロンボ」と言った。ボサボサの髪に古びたコートの風貌が人気ドラマの主人公に似ていた。後の「黄金バッテリー」は阪神でプロ入り時、このコロンボから「プロとはどういう世界か教わった」と口をそろえた。

 田中二郎である。スポニチ大阪本社の名物記者にして名物編集局長、そして常務取締役だった。
 訃報が伝わった。13日午前、西宮市の自宅マンションで息を引き取った。臨終を告げた医師は死因を「膀胱(ぼうこう)がんによる腎不全」と告げた。88歳だった。

 妻と娘、孫がみとった。妻は「苦しむことなくスーッと息をしなくなりました」と安らかな最期だった。生前から「わしが死んだらスポニチに載る。それで伝わればええんじゃ」との指示に従った。通夜、葬儀・告別式を家族・親族だけで終えた後、連絡してきた。

 法政大野球部の後輩にあたる田淵は「プロ1年目、安芸の海岸でプロの心構えを教わった。いろんな悩みを聞いてくれた」と話した。宿舎「東陽館」裏手に広がる太平洋を思い出した。江夏は「プロ入りの頃からお世話になった。あの連載を読み返したい」と話した。プロ2年目、68年の長期連載『速球王・江夏はゆく』である。細やかな筆致で心の内面も描いた。

 村山実との交流も深かった。遠征時の宿舎で外出もマージャンもせず、独りで新築する家の図面をかく。闘将とは好対照の繊細な一面を伝えた。

 周防大島(山口県)の出身。同郷で法政大の先輩、鶴岡一人をはじめ、張本勲、山本浩二ら野球界の人脈は幅広かった。
 個人的な思い出を書く。阪神監督解任後の吉田義男がフランスで指導を始めた89年、パリ出張を命じられた。スポニチは厳しい論調で更迭論を書いていた。吉田は驚き「コロンボの指示か」と温かく迎えてくれた。本物のコロンボのように人情味があり親分肌だった。

 ニューヨーク支局から帰任すると「野球のない国へ行け」。野球バカになるなとの教えだった。作詞家・星野哲郎ら文化人など幅広い交流があった。田中二郎はおおらかで大きな人物だった。

 胃がんを患った2年前から延命治療を拒み、在宅で過ごした。島で生まれ、晩年は人工島に建つマンションで「日々笑って過ごしておりました」と妻は言う。「大好きな記者の仕事ができた幸せな人生だった」と繰り返した。野球記者の鑑(かがみ)だった。 =敬称略= (編集委員)

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2022年11月17日のニュース