工藤公康氏 社会人決まってたのに…“根本マジック”で父親からプロ入り指示され「初めて家出した」

[ 2022年10月17日 18:45 ]

1982年1月、西武入団会見で坂井保之球団代表(左)に帽子をかぶせてもらう工藤公康投手
Photo By スポニチ

 昨季までソフトバンク監督を務めた工藤公康氏(59)が、15日放送のBS日テレ「おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR,NO LIFE!」(土曜午後9時)に出演。「プロ入り拒否」を宣言していた1981年のドラフト会議で西武に6位指名され、“根本マジック”によって入団することになった過去を振り返った。

 工藤氏は名古屋電気高(現・愛工大名電)時代の1981年甲子園大会2回戦でノーヒットノーランを達成。お笑いコンビ「おぎやはぎ」の矢作兼から「甲子園でノーヒットノーラン達成したってことは、もうそれはスーパー高校級でしょ?プロでも絶対活躍出来るなって感じですよね」と話を振られると、「いえ、意外とですねプロは全然違いました」と即答。

 西武入団当時について「レベルが違いました。なぜ1年目から一軍にいたのか自分でもよく分からなかった。広岡さん(当時の監督)は違う見方をしていたようですが、僕は全く通用しないと思っていた。走っても後ろから数えて何番目かで、筋力も先輩たちの方が体が大きい。先輩たちのウェイトを全然持てなかったです」と振り返った。

 矢作から「でもお父さんはメチャクチャ喜んだんじゃないですか?」と質問されると、工藤氏は「僕はドラフト6位でした。というか僕、社会人決まってたんですよ。当時の熊谷組になるんですけどね。決まっていたのにドラフトで指名された。ウチの父親が当時の球団責任者だった根本陸夫さんと話して、もの凄く気に入ってしまった。僕は夜中の3時に叩き起こされて父親から“お前プロ行け”と言われた」と説明。

 「球界の寝業師」というニックネームで知られ、ドラフト会議やトレードで手腕を振るった仕事ぶりが「根本マジック」と呼ばれた“交渉術”によって父親から強引にプロ入りの話が進められたとした。

 続けて「もう社会人の方にあいさつも行っていたのに…」とコメントすると、矢作は「いやーーー気まずい」と同調。工藤氏は「そうなんですよ。初めて3日間家出しました。少しは心配されるかなと思っていたら全くされてなかった」と昔話として笑い飛ばした。

続きを表示

この記事のフォト

2022年10月17日のニュース