【特別手記 糸井嘉男】ダルとのトレーニングが超人への出発点 おかげで長く現役を続けられた

[ 2022年9月22日 07:15 ]

セ・リーグ   阪神4―10広島 ( 2022年9月21日    甲子園 )

21日、甲子園のファンに別れを告げた糸井
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 ありのままの姿を見せる!応援していただいたすべての方々に全力プレーで感謝を伝えたい。引退試合では、そう心に決めていた。チームがクライマックスシリーズ進出をかけて戦っている状況である以上は、どんな場面で打席が回ってきても貢献できるようにと気合を入れて臨んだ。

 ただ、正直寂しい気持ちもあった。今までは当たり前だった野球漬けの生活も、球場に行くことも、終わるのだ…と思うと自然に涙が出てきた。

 幼い頃から情熱を注ぎ、常に隣にあったものが野球だった。僕にとって野球は“家族”。チームメートにもファンにも、本当に支えられた。伝統あるタイガースでは重圧以上に、やりがいの方が大きかった。重圧はなかった。甲子園ではタイガースファンの一番近くでプレーできた。右翼の守備に就くとき、本塁打や適時打を打った直後に右翼スタンドから響く声援は言葉にできないぐらい、うれしかった。プロ野球選手で良かったと感じる瞬間でもあり、うまくいかないことがあっても、あの大声援が前向きに「頑張ろう」と思わせてくれた。

 30代後半は、けがに悩まされた。実は、けがはすべて深刻だった。選手生命に関わるようなものばかりで、何度か手術も経験した。けがをするたびに、野球ができなくなるという不安に襲われた。その時は「下を向いていても、仕方がない」と何度も自らを奮い立たせた。本当に、この肉体がよく耐えてくれた。

 日本ハム時代にチームメートだったダルビッシュ有の影響が「超人」への出発点だったかもしれない。彼はウエートトレーニングへの意識が高かった。ウエートトレーニングに励む中で球速がアップし、球威も増していく様子を間近で見てきた。その成功例があったからこそ、僕も変わることができるのかなと。野手に転向した頃から一緒にトレーニングに励んだ。当時はダルビッシュに「僕が野手だったらもっとやりますよ」と言われたこともあった。この言葉で闘志に火が付いた。それ以降、妥協せずに取り組んできたことが、長く現役を続けられた要因だと思っている。

 41歳まで野球をできるとは想像もしていなかった。日本ハムでは何度も手の皮がむけた。とにかくバットを振り込み、苦しい練習にも耐えた。何よりプロとしての道しるべを示してくれた方々には本当に感謝の言葉しかない。主力として迎え入れてくれたオリックスでは個人タイトルも獲得できた。たくさんのいい思い出しかない。

 その中でも一番、印象に残っているのは、活躍した時に見ることができたファンの笑顔。最後は甲子園という最高の舞台で現役生活を迎えられて幸せだった。19年間、ありがとうございました。(阪神タイガース外野手)

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