光泉カトリック野球部監督として、球児とともに阪神と同じタテジマで 甲子園目指し夢を追う

[ 2021年12月28日 07:00 ]

<猛虎の血>光泉カトリック・伊藤文隆監督
Photo By スポニチ

 【猛虎の血-タテジマ戦士のその後-(11) 伊藤文隆さん】

 真っ向勝負のストレートで1985年の阪神日本一に貢献した伊藤文隆(67)は、今も甲子園を目指している。現役通算54勝、西武との日本シリーズにも先発した右腕は光泉カトリック(滋賀)の野球部監督として、球児たちとともに汗を流している。

 阪神が日本一に輝いた85年シーズン、伊藤は開幕2カード目、4月16日の甲子園での巨人戦に先発。序盤に2点リードされたが、流れは4回に変わった。

 2死から掛布雅之の本塁打で1点差。勢いづいた阪神はこの回に7点を挙げ逆転。伊藤は9回2失点で完投勝利を収めた。「次の日があの試合だったね」。翌17日、歴史に残るバックスクリーン3連発が飛び出した。

 西武との日本シリーズも忘れられない。10月30日、甲子園での第4戦に先発。調子は良かった。5回まで2安打。だが6回にスティーブに2ランを被弾。「フォークがすっぽ抜けた。あれがなければ…」。第7戦先発候補にもなったが、6戦目で阪神が優勝。胴上げ投手は幻で終わった。

 「ずっと右肩の不安との闘いだった。痛みさえなければキレのある球で抑える自信はあった。でも85年も調子には波があった」
 毎年、エース候補として期待された。力はあったが、投げてみないと肩の状態は分からない。痛みを取るため各地の専門家を回った。登録名を「弘利」「宏光」「文隆」と変えたのも、姓名鑑定に頼った結果だ。85年のチームメートのゲイルに「これを使ってみたらいい」と勧められた塗り薬があった。確かに楽になった。だが、チューブには「ホース オンリー」の英語。競走馬用だ。2度目の使用は断念した。

 度重なる故障と闘いながら91年に現役を引退。野球解説者として活動しながら、09年には社会人クラブ「トータル阪神」の監督として全日本クラブ野球選手権で優勝。そして昨年7月下旬、高校野球の監督に就任した。「高校生はスポンジのように吸収してくれる。常に言っているのは自分でいかに考えてプレーするか。自分で考えないとレベルは上がらない」。公式戦で初指揮を執った昨秋は県大会2回戦で敗退。今年も春3回戦、夏2回戦、そして秋は1回戦で涙をのんだ。まだ結果にこそ恵まれていないが、阪神と同じタテジマでの甲子園出場の夢を一緒に追う日々だ。

 強いチームにはしっかりしたコミュニケーションがあると思っている。王貞治との初対決では田淵幸一のサインに首を振った。試合後、謝りに行くと「そのくらいの気持ちでないとプロでやっていけない」と励まされた。勝利投手の権利目前で交代させられたときにはバースが「こういうときは怒れ。あんな交代ないぞ、と言ってやれ」と感情を爆発してくれた。いい思い出だ。

 「今年の阪神は残念だったけど、力はつけたし若返った。大山と佐藤輝が切磋琢磨(せっさたくま)してやれば、いい打線になるはず。藤浪も体があって腕も振れる。バランスに注意すれば絶対にできる投手だと思う」と同じ右腕の巻き返しに注目をしていた。(鈴木 光)

 ◇伊藤 文隆(いとう・ふみたか)1954年(昭29)5月11日生まれ、名古屋市出身の67歳。大同工時代は72年ドラフトで中日から5位指名を受けるが拒否。社会人三協精機に進み、77年に阪神からドラフト1位指名を受け、プロ入り。78年4月のヤクルト戦で初勝利。82年には自身最多の10勝を記録。91年に引退。現役通算320試合54勝81敗4セーブ、防御率4.43。背番号は20と14。1メートル82、73キロ(現役時)。右投げ右打ち。

続きを表示

この記事のフォト

2021年12月28日のニュース