【内田雅也の追球】キャンプを張る意味

[ 2021年1月13日 08:00 ]

昨年、宜野座で行われた阪神キャンプ

 戦後、甲子園球場の進駐軍接収が解けたのはちょうど今ごろの時期だった。1947(昭和22)年1月10日、接収・占領が部分解除となった。グラウンドとスタンドが使用可能となった。

 
 進駐軍から「球場貸与許可」とは「本末転倒」だと、当時の球場長・石田恒信が手製本『甲子園の回想』に記した。
 
 終戦後の45年10月からの接収中、貴賓室は司令官室に、各部屋は事務室、廊下・通路に兵隊のベッドが並び、一塁側2階食堂はバー、1階食堂は物品提供の売店「PX」となった。石田は米兵に子どもがガムやチョコレートをねだり、夜になると女性がたむろする風景を描き「日本男子として誠に情けなかった」。
 
 ともあれ、甲子園のグラウンドは1年半ぶりに使えるようになった。<グラウンドが使用できることはプロ野球興行が行えることでもあり、関係者はやっと愁眉(しゅうび)を開いた>と阪神球団史『阪神タイガース 昭和のあゆみ』にある。
 
 <キャンプのためのグラウンド探しという厄介な問題も自然に解消、若林、藤村らは2年ぶりに甲子園の黒土を踏んで、その感触を懐かしんだ>。それまで甲子園でキャンプを張っていたのだ。
 
 戦後46年にプロ野球公式戦は再開されたが、阪神の選手たちは練習場所に困った。西宮・今津にあった合宿所近くの広場や道路、時に阪急本拠地の西宮球場を借りた。他は対戦相手を見つけてオープン戦を繰り返した。
 
 47年からは再び、甲子園キャンプが行われた。初めて甲子園を離れたのは53年で、鹿児島・鴨池球場だった。吉田義男入団の年である。巨人が米サンタマリアでキャンプを張ることに対抗し、南国の地を選んだ。
 
 57年は徳島・蔵本球場でキャンプを行った。前年に主力選手が監督に反旗を翻す「藤村排斥運動」があり、出直しを誓おうと「同じ釜の飯を食った」とマネジャー・奥井成一が回想している。
 その後は高知・安芸、沖縄・宜野座と変わったが、キャンプの狙いは昔と変わらない。温暖地での合宿で体と心を整えるわけだ。そのためには地元の協力が欠かせない。
 
 新型コロナウイルスの感染拡大で緊急事態宣言下にあり、2月1日キャンプインを危ぶむ声もある。地元と連携しながらこの難局に向かいたい。非常時の今は、キャンプの意味を考える機会でもある。 =敬称略=
 (編集委員)

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2021年1月13日のニュース