【内田雅也の追球】“96歳”甲子園の教え 4被弾、阪神・西勇の異常が見えたフライ58%

[ 2020年8月2日 08:00 ]

セ・リーグ   阪神3-7DeNA ( 2020年8月1日    甲子園 )

<神・D(8)> 5回2死三塁、佐野に勝ち越しの左越え2ランを打たれた西勇輝(撮影・大森 寛明)
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 甲子園球場の誕生日だった。96歳を迎えた。誕生は1924(大正13)年8月1日である。

 当日は好天だった。恐らく午後から夜にかけては浜風が吹いていたことだろう。それが甲子園である。

 大球場建設を指揮したのは阪神電鉄専務・三崎省三である。京大出の青年技師、野田誠三(後の本社社長、球団オーナー)に設計を命じた。当時、阪神は社長制を敷いておらず、三崎は実質ナンバーワンの立場だった。

 三崎の四男・悦治が書いた小説『甲子(こうし)の歳(とし)』(ジュンク堂書店)に<八月一日の暁天(ぎょうてん)は、素晴らしく美しかった>とある。早朝に訪れた省三は独り、スタンド最上段に上った。<眼前に広がる大阪湾は、朝焼け雲に映えて金色にきらめき、浜辺の松林は、球場を濃緑に包んで美しく、大気は、清らかに澄んでいた>。

 当時は甲子園浜まで見渡せた。それは、今の甲子園駅前の3階建て邸宅(後のタイガース「協和寮」)に暮らした作家・佐藤愛子も鳴尾村誌で語っている。「父(作家・佐藤紅緑)は3階に上がることを禁じましたが、上がると南の方向に海が見えました」

 後に高い建物が並び、海も浜辺も見えなくなった。2005年には、球場南側に大型高層マンションが建設され、「風向きが変わる」と話題になったこともある。それでも右翼から左翼に吹く浜風は変わらなかった。

 前日に梅雨が明け、この日も強い浜風が吹いていた。左方向への飛球は風に乗り、予想以上に伸びる。飛球を打たせるのは危ない。つまり、投手にとっては「高めは禁物」である。

 そんな浜風の怖さをあらためて知ることになった。阪神のエース・西勇輝がまさかの4発を浴びた。1回表のネフタリ・ソトは真ん中チェンジアップ、4回表の大和は内角高めシュート、最も痛かった5回表の佐野恵太勝ち越し2ランは外角高めシュート、6回表の宮崎敏郎は真ん中高めスライダー。いずれも投球は高く、打球は飛球となり、風に乗って左翼席へ、あるいはポールを直撃したのだった。

 すべて失投だった。西も分かっている。今季初、そして2個目の死球をともに左打者に当てた。マウンド上、何度か首をかしげた。梅野隆太郎に右手を顔の前に出して、口の動きで分かるが「ゴメン」と言っていた。

 もちろん、浜風は相手にも吹く。今季3度目マッチアップとなった同じく開幕投手のDeNA・今永昇太とは明暗が分かれた。両投手の打球(安打を含む)を並べれば分かりやすい。ともに打者27人に対した。三振と四死球を除く打球を数えたものだ。

 打 球 西  今永
 ゴ ロ  8  12
 フライ 11   3

 今永は許した安打も5本ともゴロで、いずれも内野手の間を抜けた単打だった。フライは木浪聖也の外飛2本と植田海のバント飛球だけ。いかに低めに集めていたかが分かる。

 対して、本来は「ゴロ投手」の西は持ち味を失っていた。フライがゴロを上回る比率で58%に上っていた。

 96年前の朝は午前7時から神事で始まった。鳴尾八幡神社の宮司・田中良全が祭文を奏上(そうじょう)した。先の書によれば<この大運動場の繁栄が、そのまま日本のスポーツの隆盛につながることを祈る>という内容だった。

 確かに、甲子園は日本の野球人の聖地となった。そして、今も浜風によって投手に「低め」の重要性を伝えている。=敬称略=(編集委員)

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