失われた球場跡地巡り<2>藤井寺、日生球場

[ 2020年6月24日 05:30 ]

近鉄の本拠地として数々のドラマが生まれた藤井寺球場
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 あの球場は今―。 大阪編集局報道部の新人記者が、関西の「ロスト・ボールパーク」を巡ります。第2回は近鉄バファローズの本拠地だった藤井寺、日生球場の跡地を、須田麻祐子が訪れた。

 かつて人気実力ともに、隆盛を誇った関西私鉄3球団の中で、記者が小学生の頃から唯一知っていたのが「近鉄バファローズ」でした。なぜ知っていたのかというと、所属していた少年野球チームの名前が「バファローズ」だったからです。近鉄阿部野橋から南大阪線藤井寺へ。線路沿いに西へ約4分ほど歩いたところに藤井寺球場は存在していた。

 現在は「四天王寺学園」へと姿を変えている。校舎前にはかつてここに球場があった証しとして「白球の夢」と名付けられたモニュメントが建っている。ボールの上に腰をおろした少年が、両手でほおづえをしている銅像。台座には「近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡地 1928―2005」と記されていた。

 開場は1928年5月25日で後楽園球場(1937―1987)より古い。戦前はアマチュア野球に使用されていた。50年に近鉄の本拠地となって以来、さまざまなドラマが生まれてきた場所だ。周囲が住宅地のため鳴り物応援は禁止。84年に照明が設置されるまでナイター開催は不可能だった。そのため野球協約に定める専用球場(本拠地)であったにもかかわらず、長年1軍の試合では週末や祝日のデーゲームしか使用されていなかった。

 こんな住宅地の真ん中に球場が存在していた。プロ野球を観戦するために多くの人が足を運んでいたなど、今となっては想像もつかない。銅像の少年と同じように、たくさんの人たちがこの地で白球に夢中になったのだろう。

 近鉄電車で天王寺まで戻り、次に向かったのは、ナイトゲームが行われていた日本生命球場の跡地。JR森ノ宮駅から西へ徒歩約3分。現在は2015年に建てられた「もりのみやキューズモールBASE」が建っている。名称からわかるように野球の「塁」を表す英語「BASE」という文字が入っており、BASEパークという野球場の形をした中庭があるなど、施設の中にも野球場だった面影が見られる。屋上に設置されているランニングコース「エアトラック」を1周すると、大阪城を望むことができた。当時のスタンドからも同じ景色が見えていたのだろうか。駅から施設へと向かう歩道の路面には、野球場をかたどったタイルが使用されていた。これもかつてここに球場が建っていた証しだ。ここもアマチュア野球で多く使用されていた。「東の神宮・西の日生」と言われる。“聖地”だった。

 58年から徐々に近鉄球団の本拠地化が進み、以降はプロ野球の会場としても使用されるようになった。都会の真ん中に建てられた球場は、両翼90・4メートル、中堅116メートル、収容人員は2万500人とプロが使用するには狭すぎた。そのため、3万人以上収容できる球場での開催が義務づけられている日本シリーズやオールスターは開催できなかった。

 逆にグラウンドとスタンドの距離が近いことで、ファンと選手の距離は近かった。79年にリーグ初優勝を決めたときは、ナインは試合が開催された西宮球場から日生球場に移動し、地元ファンの前でビールかけを行った。こんな街中で、プロ野球の試合が行われていたなんて、想像できない。

 大阪球場、西宮球場跡地と比べると、記者にとって最も印象の薄い球場跡地ではあったが、球団としては最も印象が強かった。これだけのチームなのに、なぜ球場の跡地に歴史を振り返る施設がないのだろうか。

 どちらの球場跡地も、かつて球場があったとは思えないほど様変わりしていた。かつてはこの地にたくさんの人の夢や希望が詰まっていたのだろう。時を経て学校へと、商業施設へと姿を変えたが、人でにぎわう場所に変わりはない。すべてが良い思い出になるなら、良いものを残してほしい。何十年後に思い出の球場を訪れた時、私たちは何を思うのだろうか。(須田 麻祐子)

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