失われた球場跡地巡り<1>西宮球場

[ 2020年6月23日 05:30 ]

かつては阪急ファンの熱い声援が飛び交っていた西宮球場
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 あの球場は今―― 大阪編集局報道部の新人記者が、関西の「ロスト・ボールパーク」を巡ります。第1回は阪急ブレーブスの本拠地だった西宮球場の跡地を、田中想乃が訪れた。

 幼い頃から阪神ファンであった記者にとって「阪急」と言えば、梅田の大きな百貨店と小豆色の電車、そして世界の盗塁王・福本豊氏である。と言っても、福本氏のことは長い間、阪神のOBだと思っていた。小学生のころ午後6時に阪神戦のテレビ中継で毎回のように解説は福本氏だったような…。それほど、私にとっておなじみの解説者である。

 阪急が現在のオリックスの前身であったことも、現在の西宮ガーデンズに本拠地球場を構えていたことも、恥ずかしながら初めて知った。同時に、祖父がオリックスを「阪急」、母が「近鉄」と呼んでいた謎が解けた。なるほど、2人が若い頃はそうだったのだ。

 阪急がかつて本拠地とした西宮球場は、現在、大型商業施設へと姿を変えている。阪急西宮北口駅の目の前、梅田から電車で15分という好立地。記者がそこを訪れたのは平日の昼間だったが、多くの人でにぎわっていた。

 本館を4階まで上がったスカイガーデンに、かつて球場だった頃の名残を見ることができる。野球場のスタンドらしき階段や、内野グラウンドを思わせる緑。スカイガーデン全体がダイヤモンドの中にすっぽり収まるような造りで、階段の外壁には「阪急西宮スタジアム」という控えめなプレートがひっそりと備え付けられていた。

 西宮球場の歴史は1937年までさかのぼる。53年にナイター照明設備が完成し、阪急の本拠地となると、71年にはオールスターゲームも行われた。第1戦の江夏豊(阪神)による9者連続奪三振があまりに有名だが、監督は川上哲治(巨人)、コーチは村山実(阪神)という豪華さ。さらに選手として長嶋茂雄(巨人)王貞治(巨人)野村克也(南海)が出場するなど、西宮球場が、日本プロ野球の一時代を築き上げたスターたちの全盛期とともにあったことを知る。

 72年には福本豊がシーズン105盗塁を達成し、西宮球場で世界記録が生まれた。シーズンの盗塁が100を超えたのは、記録をとり始めた36年までさかのぼっても、この年の福本だけである。その足を封じるため、当時南海のプレーイングマネジャーだった野村が、ピッチャーのクイックモーションを考案したと言うのだからすごい。さらにその試合で阪急はリーグ優勝も決めている。普段は同じ西宮市内の甲子園に客を奪われ、閑古鳥が鳴く
ことも珍しくなかった。しかし、この日ばかりは多くのファンが詰めかけ、スタジアムは歓喜の渦に包まれた。

 75年にはチーム発足40年で念願の日本一を決め、西宮球場で最初で最後の胴上げが行われた。グラウンド一周のセレモニーでは、スタンドを埋め尽くした多くのファンが祝福した。阪神が優勝すると道頓堀川に飛び込むファンがいるが、同じ関西の球団である阪急のファンはどんな様子だったのだろう。やっぱり武庫川に飛び込んだのだろうか。少し期待したが、残念ながらそんな記録は見つからなかった。

 華々しい記録を回顧してきたが、西宮球場には、記者にとっては珍エピソードが残っていた。当時は競輪場と併用されており、バンクの跡で、外野はガタガタ。ボールは当然のようにバウンドが変わり外野手はエラーを連発したというのだ。83年には福本が競走馬と対決。「人気のセ、実力のパ」と言われた時代、客寄せのための苦肉の策だったらしいが、「福本豊、競走馬に勝利」という新聞の見出しだけで面白い。

 今では跡形もなく取り壊されてしまった西宮球場だが、思い出までは壊せない。西宮ガーデンズの南側駐車場には、阪急の後援会が記念樹として植えたアオダモの木が、今もしっかり根を張っている。子どもの遊び場へと姿を変えたダイヤモンドを見下ろしながら、かつてここで生まれた数々の熱戦に思いをはせた。「なんや、ショッピングモールになってからの方が人来てるやないか!」そんな声も聞こえてきそうだが、ここが人々の集いの場であったことは、今も昔も変わらない。阪急ファンの声援が、子供たちの笑い声に変わったということだ。

 オリックスを阪急と言い間違える祖父の心にはまだ、西宮球場がでんと構えているのだろう。私にもいつか子供に「お母さん、今そんな名前のチームないで」と笑われる日が訪れるのだろうか。(田中 想乃)

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