【内田雅也の猛虎監督列伝(33)~第33代 金本知憲】超変革で「わが子」育成 本社介入の異常な退任劇

[ 2020年5月23日 08:00 ]

17年6月4日、プロ初のサヨナラ打を放った岡崎(左)を手荒く祝福する金本監督
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 金本知憲(本紙評論家)は当初、阪神からの監督要請を「受ける気は全くなかった」と言う。引退から3年。解説・評論や講演、ゴルフを楽しむ日々に不満はなかった。

 球団は熱意で口説いた。2015年9月30日、球団取締役会で和田豊退任と金本要請を決め、動いた。10月1日正午、神戸ベイシェラトンホテル&タワーズ20階クラブ・スイートの特別室で初交渉となった。「もう少しゆっくりしたい」と拒む金本に球団社長・南信男は「辛く苦しい日々になるかも知れんが」と、暗黒時代を知る自身の経験を交え「後からいい思い出に変わる」。1週間後の8日、同じ部屋でオーナー・坂井信也の言葉として「チームを一度壊してでも建て直してほしい」と訴えた。金本のおとこ気に火が付いた。

 3度目はクライマックスシリーズ(CS)で敗退が決まった12日夜、東京・日本橋のマンダリンオリエンタル東京37階の広東料理「センス」。17日に電話で受諾。19日、リッツカールトン大阪で就任会見となった。

 「厳しく明るくやっていきたい」「選手の意識を変えて練習する。それだけです」相当な練習で一流となった金本は引退会見で「もっと練習しておけば良かった」と語ったほど。練習で育成する方針は当然だった。現役時代の「6」を背追い、坂井の言う「一度壊してでも」に沿い、若手登用も誓った。スローガンは『超変革』と掲げた。

 金本招へいを成功させた南は顧問に退き、球団社長には四藤慶一郎が就いた。坂井から慰留もあった南だが、岡田彰布、真弓明信、和田豊と3監督の退任を見送り、自分だけ居座るのを潔しとしなかった。

 新人の高山俊や青柳晃洋、北條史也、横田慎太郎、原口文仁ら若手を積極的に使った。春先は上位にいたが、交流戦から下降した。7月8日広島戦(甲子園)では3回で5失点の藤浪晋太郎に「責任を感じないといけない」と8回まで161球を投げさせた。

 7月23日の広島戦(マツダ)では鳥谷敬を先発から外し、フルイニング出場を667試合で止めた。本紙・惟任貴信は<熱を注入し、執念と覇気を求めた。「鳥谷外し」はチームへの強烈なメッセージ>と記した。チームを「解体」する姿勢は<星野阪神と共通する>と評した。

 成績は巨人に9連敗など9勝15敗1分け、優勝した広島に7勝18敗と大きく負け越し4位。最終戦終了後、甲子園の観衆の前で「私の力不足。申し訳ありませんでした」と頭を下げた。監督自らがマイクの前で肉声で謝罪するのは04年の岡田以来だった。

 2年目の17年。若手登用を継続しながら、FAで獲得した糸井嘉男やベテラン福留孝介が打線の軸となり、前年1軍登板のない桑原謙太朗をセットアッパーに抜てき、安定した戦いを続けた。

 印象的だったのは5月6日広島戦(甲子園)。5回表0―9から大逆転で勝ち首位にも立った。

 あの日の試合中、その敢闘ぶりに阿久悠の小説『球心蔵』の警句「負けても美しく、下手でも感動を呼ぶのが野球やないか」が浮かんだ。『内田雅也の追球』で同じく阿久悠の言葉から「準感動」ではなく「純感動」だと書いたのを思い出す。

 8月末には首位広島に5・5ゲーム差だったが9月に後退し、2位となった。観客動員が7年ぶりに300万人に達した。CSは3位DeNAと雨中の甲子園で激闘となり1勝2敗で敗れた。

 12月1日、殿堂入りを祝う会の壇上、星野仙一は金本の姿勢を評し「優勝はあと2年待ってやってください」と話した。すでに膵臓(すいぞう)がん末期だった星野は金本の変革が実ると信じ、ファンや球団・本社に辛抱を願ったのだろう。

 3年目、18年は開幕から貧打で苦しんだ。6月の阪急阪神ホールディングス(HD)株主総会では球団不成績への株主質問に議長の角和夫(HD会長)は回答者に担当役員でなくオーナー代行で本社会長の藤原崇起を指名。シーズン終了後に坂井に代わりオーナーとなる藤原は「真剣に考えていかねばならない」と約束した。球団首脳は前年12月から球団社長に揚塩健治、副社長兼本部長に谷本修が就いていた。

 この年は雨天中止が多く、終盤の変則・過密日程にも悩まされた。Aクラスが遠のいた9月、球団は水面下で複雑な動きを見せた。

 金本続投前提でコーチ陣をてこ入れ、金本の東北福祉大後輩にあたる和田一浩を打撃コーチに要請。2軍監督の矢野燿大を1軍ヘッドコーチとする異動を決めていた。

 だが、日増しに募る世間の声に本社上層部の心が揺れた。たとえば、10月2日にはノーベル賞を受賞した阪神ファンの京大特別教授・本庶佑がTBS系の情報番組『ビビット』に出演。阪神浮上のポイントに「指揮官の交代です」と語った。本社上層部は後日、本庶から直接、この意見を聞いたとの情報もある。

 事件は10月10日に起きた。本拠地・甲子園での最終戦の後、揚塩は金本を呼び、辞任を迫った。事実上の解任通告だった。この夜、谷本と球団副本部長・嶌村聡はフェニックスリーグ開催中の宮崎で矢野をはじめ、2軍コーチに新ポストを伝えていた。金本退任は知らなかったのだ。揚塩は本社の命を受け、独自に動いていた。揚塩は辛い立場にあったが、谷本や嶌村ら球団内役員にも伝えなかったのも本社の指示だろうか。

 翌11日の金本辞任会見は甲子園の球団事務所プレスルームで行われた。ひな壇もない立ち話、テレビや写真撮影も禁止の質素で異常な形だった。

 同日夜、本紙・山本浩之はコーチや関係者らと金本宅を訪れた、と後に書いている。<疲れ切った表情で見たこともない大きさの高級ワインを取り出した。「優勝した時にみんなで飲もうと買った」。歓喜のワインは静かに時を待つ>。まだ50歳。再起に期待した原稿である。後日には多くの選手たちも訪れ、別れを惜しんだ。

 退任後の12月11日、自身の殿堂入りを祝う会が開かれた。壇上、金本は後任監督の矢野を励まし、選手に笑顔で語りかけた。「本当に、わが子のように思う。頼むから、この3年間を無駄にしないように、と思う」。猛虎たちに明日を信じる笑顔が広がった。

  ◇  ◇  ◇

 1カ月以上にわたり、連載してきた『猛虎監督列伝』はこれで筆を置く。第34代となる現監督・矢野燿大の物語はまた別の機会を待ちたい。

 野球記者となって35年が過ぎた。阪神取材に携わって33年以上、多くの関係者の話を聞き、文献を読みあさってきた。不思議なことに、今はなき先人たちが、その人柄とともに目の前に立ちあがってくる錯覚に陥る。彼らは皆それぞれが歴史と伝統を支えてきたのだ。かつてないコロナ禍に苦しみながら85周年を迎えようとするいま、先人たちの情熱と労苦に敬意を表したい。=敬称略=(編集委員)<完>

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