【内田雅也の猛虎監督列伝(17)~第17代・金田正泰】「迷宮」のなか、優勝目前の不可解用兵

[ 2020年5月6日 08:00 ]

1973年1月19日、修行を終え、雪の永平寺をホッとした様子で下山する金田正泰監督(左)と江夏豊
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 金田正泰はヘッドコーチで阪神に復帰した際、江夏豊に「息子」として接した。金田の長男の名が偶然「豊」で「ユタカ」と呼んだ。江夏は「オジキ」である。ところが金田が監督となった1973(昭和48)年、両者は口もきかなくなる。

 江夏が<人間性をはっきり見てしまった>と自伝『左腕の誇り』(新潮文庫)に記したのは、金田に誘われ、1月15日から19日、永平寺(福井県)に修行に出向いた時だ。早朝4時半起床、一汁一菜の食事、1日6度の座禅に掃除と厳しい。金田は「年寄りだから」と掃除はせず、禁煙だが宿坊や便所で吸った。<不信感を抱き、思い入れがプツンと切れた>。

 開幕前3月29日、皇子山での試合前、投手の鈴木皖武(きよたけ)が外野から引き上げてくると金田は「おまえ、横にボールがあったのに、なんで拾わんのじゃ」と番記者の前で怒鳴った。

 5月末、広島遠征中に権藤正利が景品のタバコを手にパチンコからホテルに帰ると金田が「サルでもタバコ吸うんか」とからかった。江夏は目に涙をためる権藤を見た。

 8月6日から長期ロード最初の遠征地、名古屋の美そ乃旅館。深夜12時、酔った鈴木が妻へ泣きながら「オレはもう辞める」と電話していた。帳場でおかみといた江夏が声をかけると「今から監督の部屋に行く」。止めたがきかず、同行した。鈴木の話に<監督が「チェッ」と舌打ちした。その瞬間、キヨさんは監督めがけて灰皿を投げつけると、まともに殴りかかっていった>。鈴木は1カ月の謹慎となった。

 江夏は夏の長期ロード明けの8月30日、中日戦(甲子園)で、今も伝説の延長11回、ノーヒットノーランを達成する。自らサヨナラ本塁打を放つ離れ業だった。

 試合後、「あれほどの快挙なら、普通は大勢で祝う。ところが集まったのは5人だけだった」と川藤幸三が本紙『我が道』に書いていた。虎風荘隣の喫茶店「ニュー甲子園」にマスターで元寮長の杣田登、虎風荘で単身暮らしていたコーチの山田伝に権藤、独身の川藤。江夏は一匹狼だった。

 その席で権藤は「監督にはもう我慢できない」と言った。江夏は「手助けする」と約束した。

 先に書くと、オフのファン感謝デーの11月23日、権藤は監督室を訪れた。中から「助けてくれー」と聞こえ、コーチ陣らが来たが、ドアの前で江夏は動かなかった。

 シーズンは大混戦で、終盤は巨人との死闘だった。当時雑誌記者で同行取材していた山際淳司は『最後の夏 一九七三年巨人・阪神戦放浪記』(マガジンハウス)で<迷宮のなかにいた>と書いた。10月11日の後楽園は7―0→7―9→9―9→10―9→10―10と壮烈な引き分けだった。

 山際は10月14日、広島市民球場での試合前、金田は「優勝まであと二百時間だ」と言ったとノートに記している。1週間後のシーズン最終戦までもつれるとの意味だ。

 その夜は3安打で敗れた。メンバーで唯一の優勝経験者だった遠井吾郎も「オレでもコチコチだったんだ。若いヤツは当然だろう」と話し、選手たちは優勝を意識して固くなっていた。

 15日は勝ち、16日は巨人が負けた。阪神は残り2試合で1つ勝つか引き分ければ優勝と王手をかけた。

 10月19日は名古屋への移動日だった。江夏は前日の電話で球団に呼ばれた。報知新聞依頼のパ・リーグ・プレーオフ観戦記で大阪球場に向かう前に訪れた。自伝に<優勝がかかった試合を前にして、ボーナスか何かの打ち合わせかなと思って、午前十一時にホイホイホイと事務所に行った>とある。部屋に入ると球団代表・長田睦夫、常務・鈴木一男がいた。

 「あしたの中日戦には勝ってくれるな」と言った。「どういうことですか」「いや、勝つと金がかかるから。これは監督も了承している」江夏はテーブルをひっくり返して出た。衝撃的である。
 そして謎なのは20日・中日戦(中日球場)の先発投手だった。
 この年、中日に強かったのは上田二朗で8勝2敗。江夏は3勝2敗2分けで、中日球場では2年間勝ち星がなかった。上田先発が妥当と見えた。

 上田に聞いたことがある。3日前、投手コーチ・柿本実に中日戦先発と告げられていた。江夏の話を「ありえない」と信じていなかった。「純粋に戦い、8キロもやせたシーズンの結末が汚れていては……」

 20日、先発は江夏だった。メンバー表交換に出たヘッドコーチ・岡本伊三美がベンチに引き返し、金田に「江夏なんですか?」と確認していた。

 試合は巨人に勝たせたくない中日先発の星野仙一があきれるほど阪神は打てなかった。金田の用兵にはまだ疑問がある。2―3の7回表2死、江夏の代打に同年限りで解雇となるブルペン捕手の藤田訓を送った。裏には対中日0勝3敗の谷村智博を告げ、点差が広がった。2―4で敗れた。

 双方シーズン最終戦で勝った方が優勝という大一番の甲子園での巨人戦。21日は雨で流れ、22日に先発した上田は2回ともたなかった。0―9とあっけない惨敗だった。

 悪夢の結末に暴徒化した観衆が巨人ベンチを襲い、球場を取り巻いた。鎮めるため、金田は球場正面の鉄扉を開け、群衆の前に立った。「われわれは全力を尽くして戦ったのですが皆さんの期待に応えられず、申し訳なく……」謝罪した。

 シーズン終了後、一度は辞意を伝え、慰留された金田は監督続投の条件に「江夏をトレードに出してくれ」と訴えた。江夏もまた「あの人の下ではやりたくない」と言った。球団社長・戸沢一隆らがとりなした。

 2年目の74年は夏のロードから失速し、一時は球団史上最低勝率に落ち込んだ。最終4位で金田は退陣。水面下では球団の大異動が進んでいた。=敬称略=(編集委員)

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