【タテジマへの道】大山悠輔編<上>虎の4番候補の少年時代

[ 2020年5月5日 15:00 ]

小学1年、「宗道ニューモンキーズ」時代の大山(中)(左は松尾真弥さん)

 スポニチ阪神担当は長年、その秋にドラフト指名されたルーキーたちの生い立ちを振り返る新人連載を執筆してきた。今、甲子園で躍動する若虎たちは、どのような道を歩んでタテジマに袖を通したのか。新型コロナウイルス感染拡大の影響で自宅で過ごす時間が増えたファンへ向けて、過去に掲載した数々の連載を「タテジマへの道」と題して復刻配信。最終回は16年ドラフトで1位指名された大山悠輔編を、2日連続で配信する。

 ドラフトの指名を待たずに、天国へと旅立ってしまった。悠輔の野球人生の恩師である少年野球時代の監督・都井(とい)誠さん(享年64)が今年の7月30日、胃がんのため死去。約3年前に判明し、当初は余命半年と告げられていたが、それから約2年と10カ月、闘病した。原動力の1つとなっていたのはほかでもない、悠輔の勇姿だった。

 悠輔は今年、大学日本代表に選出され、7月の日米大学野球に4番打者として出場した。その頃、都井さんは話すこともままならないほどに体調が悪化していたが、そんななかでも唯一、笑顔になって喜ぶ瞬間があった。それは、悠輔が日の丸を背負って戦っている姿をスマートフォンの速報サイトやテレビで周囲の人が見せた時。妻の富江さん(64)が明かす。「苦しそうだったけど、大山くんの写真や映像を見せたらニコっと笑ってね。手を上げて喜んでいました」。教え子が日の丸を背負って戦う姿は、都井監督に生きる勇気を与えていた。

 多忙な野球生活のなかで、お見舞いに行けなかった悠輔。そのことを悔やんだが、闘病中も気に掛けてもらっていたことは伝え聞いた。

 「すごく応援してくれていて、ドラフトも楽しみにしてくれていたと聞いていました。(ドラフトの)結果を直接言うことはできなかったですけど、こういう結果になって、少しは恩返しできたのではないかと。喜んでくれてるのではないかと思います。(大学)野球が終わったら、あいさつに行こうと思います」。都井監督は、悠輔の胸のなかで生き続けている。

 そんな恩師との出会いは小学1年生の時。父・正美さん(49)につれられ、茨城県・下妻市の少年野球チーム「宗道ニューモンキーズ」の試合を観戦した。そこで当時、監督を務めていたのが都井誠さんだった。同年代の子どもたちが白球を追いかける姿をうらやましそうに眺めていたとき、都井監督にこう、声をかけられた。「試合に出てみるか?」。

 突然のオファーに驚いた。グラブはない。しかもジャージ姿。だがすぐに「出たい!」と素直な感情が湧いて出た。チームメートのグラブを借りてジャージ姿のまま中堅の守備についた。緊張して構えていると、いきなり打球が飛んできた。「ライナーだったと思います。左中間を抜けていったんですが、追いかけるのが楽しかった。それがきっかけで、このチームで野球を始めようと思ったんです」。

 都井監督のモットーは「怒ったり、技術を教えたり、それはこの先いくらでもできる。とにかく今は楽しく。野球を好きになってくれればそれでいい」。悠輔が野球にのめりこむのは必然だった。

 チームの練習は土、日のみだが、平日は下妻市内の都井監督の自宅の庭に集まった。トスバッティングや鬼ごっこ。ときにはスイカをほおばったり、とにかく楽しく、縛られることのない環境だった。そこで悠輔は野球の楽しさを学んだ。「常に笑ってやさしく教えてくださった。それがあったから今でも野球を頑張ろうと思えます。(野球の)原点はそこにあります」。

 悠輔の力と意識の高さは群を抜いていた。毎試合のようにヒットを放ち、試合の合間に公園に行ったときでもほかのチームメートが遊具で遊ぶなか一人黙々とバットを振るような野球少年だった。チームメートで現在は茨城県でパティシエとして働く松尾真弥さん(22)は「常に打っていた印象があります。それに、みんなが遊んでるのに大ちゃんは一人で練習したりしてて。すごいなーと思っていました」と驚いていたようだ。

 楽しむことを優先していた分、チームは弱かった。悠輔が在籍した6年間大きな大会を勝ち進むことはなかった。だが、野球の礎はたしかにここにあった。当時の悠輔の口癖は「プロ野球選手になって、家族に大きな家を建てるんだ!」。小学校の卒業文集にも将来の夢を「プロ野球選手」と書き記した。 

 茨城県下妻市の千代川中に進んだ悠輔は軟式野球部へ入部。1年から遊撃のレギュラーとなり、エースにもなった2年時に思わぬ壁にぶつかった。既に球速が120キロを超え、同級生の捕手がうまく捕れなかった。

 捕手のミスが敗戦につながることもあった。責任を感じて全体練習の後も残って練習する“女房役”に付き添うようになった。「ミスをしたくてしているわけじゃないですから。チームが勝てるように一緒に練習したこともありました」。チームの和を第一に考えた動だった。

 中学3年最後の大会は下妻市大会で優勝して県西大会に進出。「4番・エース」として名が通っていて、チャンスで迎えた打席では決まって敬遠された。「チャンスではとにかく勝負を避けられていました。負けた試合もそうでした」。3年時から監督を務めた佐次聖司さん(46)は残念そうに振り返った。準々決勝敗退後、悠輔は泣き崩れた。

 「思い通りにいかないことが多くて県大会にもいけなかったので、本当に悔しかったです」

 高校進学に際して県内の強豪校からの誘いがあった。すべてを断って甲子園出場経験のないつくば秀英を選んだ。理由は2学年上に現オリックスの塚原頌平がいたからだ。結城市出身で少年時代から“隣町のヒーロー”として憧れの存在だった。進路に迷っていた頃に塚原からメールが届いた。「プロに行きたいなら、秀英に来い」―。断る理由などなかった。(2016年10月31日~11月1日掲載 一部編集、あすにつづく)


 ◆大山 悠輔(おおやま・ゆうすけ)
 1994年(平6)12月19日生まれ、茨城県出身の21歳。小1から野球を始める。つくば秀英では投手兼遊撃手で2年夏に茨城大会8強。甲子園出場経験なし。白鴎大では1年春から三塁手で出場。4年春にはリーグ新記録8本塁打を放ち、20打点で打点王。大学日本代表の4番も務めた。1メートル81、85キロ。右投げ右打ち。

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