中日初連覇を成し遂げた落合監督の退任 “花道を飾ろう”という美談ではなかった10ゲーム差逆転劇

[ 2020年4月26日 05:30 ]

落合監督退任が発表された11年9月22日に15勝目を挙げた吉見(右)を笑顔で迎える
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 【忘れられない1ページ~取材ノートから~】11年に中日を球団史上初の連覇に導き、落合博満監督(当時57)はユニホームを脱いだ。退任が発表された9月22日以降、15勝6敗3分けの快進撃で10月18日の横浜戦(横浜)で就任8年で4度目の頂点に立った。最大10ゲーム差あったヤクルトを抜き去る大逆転劇は、オレ流監督らしい計算と忍耐、選手教育の集大成だった。(山添 晴治)

  3―3で延長10回に入り、試合開始から3時間30分を経過していた。東日本大震災の影響による節電策としてこの年に採用されたのが「3時間半ルール」。マジック1の中日は引き分けで優勝を決め、落合監督が6度、横浜の空に舞った。

 「俺らしくていいじゃないか。4度の優勝全てパターンが違うもんな。04年は負け、06年は勝ち、去年は試合のない日に決まった。なら、今年は引き分けしかねえ。そんな気がしていたよ」

 どんな形でも、最後に髪の毛1本でも上にいればいい――。就任時から何度も聞いてきた持論だ。言葉通り、正念場での勝負の勘の鋭さ、運の強さは恐るべきものだった。

 8月3日時点で10ゲーム差をつけられたヤクルトを大逆転する起爆剤となったのが、9月22日の「退任発表」だ。4.5差まで迫っていたこの日から直接対決4連戦で、追い上げムードに水を差すような突然の発表。落合監督は選手には一切、話さなかった。球団には「監督から説明してください」と頼まれたが固辞。「大一番を前に、監督が来年やらないなんて話は必要ない」と突っぱね、普段通りを貫いた。

 優勝争いのさなかでの発表で、チームが崩壊しても不思議ではない。ただ、落合竜には逆に出た。その日から破竹の進撃を開始。以降の13試合を10勝2敗1分けと勝ち続け、10月6日に首位に立った。選手が「監督の花道を飾ろう!」と奮起した…となれば、収まりのいいストーリー。だが、当時の取材ではそんな印象はまるでしなかった。むしろ「監督がいなくても俺らはできる」ことを証明するのを、競い合っていたかのように感じた。

 選手を批判することはない一方で、内心も明かさない。何を考えているか分からない指揮官に「アンチ」が多かったのも確か。9月22日の発表を聞き、大喜びした選手もいた。それでも、そんな選手に染み込んでいたのが「誰かのためじゃなく、自分の生活のためにやる」という落合野球。退任発表で選手のプロ意識が覚醒したことが、快進撃につながったとみている。

 もう一つ、最終盤戦での逆転劇の大きな要因が、東日本大震災による日程変更のアヤだった。3月25日予定だった開幕が「3・11」の被災で4月12日までずれ込んだ。シーズン前に全試合をシミュレーションする落合監督には大きな誤算。ただ、新日程で10月に得意のナゴヤドームでの10連戦(4日から13日)が組まれたことが、指揮官の頭の中にあった。

 「最終的に名古屋で10連戦が組まれた、組まざるを得なかった。幸か不幸か…、なんて言い方はいけないんだろうけど、結果的にウチには良い方に出たってこと。どういう形でどの位置で10連戦を迎えられるか。それをずっと考えていた」

 ヤクルトに大きく離された時も、10連戦までに射程圏内にいれば勝負になる計算があった。内心はヒヤヒヤでもじっと我慢。狙い通り、8勝1敗1分けで一気に抜き去った。

 基本的には物事を最悪から考えるネガティブ思考。ただ、一度腹をくくればテコでも動かない。退任発表後も無表情でベンチに座る姿は、味方に安心感を、相手には威圧感を与え続けた。監督、そして人間・落合博満の真骨頂を見せつけた最後のリーグVだった。

 ≪上層部に“敵”敗戦で球団幹部ガッツポーズ≫引き分けによる優勝決定は85年阪神以来、26年ぶりだった。1面は選手たちの手で宙を舞った落合監督。そして、2、3面では信子夫人とともにビールかけで笑顔を見せる指揮官の写真をメインに据え「夫婦対談」で埋め尽くした。大逆転へのターニングポイントを問われると「この際だから、言っちゃうけれども“俺らが勝ってもらっちゃ困る”と思っていた球団幹部が、9月の巨人戦でウチが負けた時にガッツポーズしてからなんだ。全てはそこから始まった」と話しだす衝撃の対談だった。

 ≪結果残し続けたゆえ経営面で苦戦≫結果を残し続けた落合監督退任の要因は、球団経営上の問題が大きい。監督、コーチ陣は、優勝した場合は年俸がベースアップする契約を結んでいた。4度の優勝で選手の年俸以外の人件費も膨らんだ。集客にも苦戦。少ない得点で競り勝つ野球は玄人受けはしても、派手さに欠ける。ファンが「勝ち慣れ」した面もあった。この年3月に就任した球団社長、球団代表は落合監督の次をにらんだ人事だった。首位を追い上げている渦中の9月22日に電撃発表したのは、逆転優勝が近づけば、発表しづらいという球団側の思惑があった。

 【記者フリートーク】優勝企画として信子夫人との「夫婦対談」をお願いした。めったに本音を引き出せない“難敵”。信子さんならうまく話を回してくれるのでは…、という期待通りぶっちゃけ話の連続となった。取材は優勝に王手をかけてからが条件。10月13日にヤクルトに勝ち、マジック2としたナイター後、深夜に名古屋の自宅にお邪魔した。それまで絶対に見せなかった柔和な表情で「おまえらもいい経験ができてるじゃねえか」と迎えてくれたのが印象的だった。

 日付が変わるころに始まった対談は盛り上がり、終わってみれば午前2時。どの話題も面白く、あっという間だった。ただ、大変だったのはそれからだ。14日は敵地で巨人戦があり、結果次第で優勝が決まる。当然、一気に原稿を仕上げなくてはならない。録音したテープを午前3時ごろから起こし始め、終わったのは8時。東京への新幹線でもなかなか寝られなかったのを覚えている。徹夜のかいもあり、今読んでも十分に楽しめる内容となったのではと思っている。

 ◆落合 博満(おちあい・ひろみつ)1953年(昭28)12月9日生まれ、秋田県出身の66歳。秋田工から東洋大を中退し、東芝府中を経て78年ドラフト3位でロッテ入団。82、85、86年に3冠王。87年に中日、93年オフにFAで巨人移籍。97年から日本ハムでプレーし、98年に現役引退。通算2236試合に出場、2371安打で打率.311、510本塁打、1564打点。04年から8年間中日監督を務め、リーグ優勝4度、日本一1度。11年に野球殿堂入り。13年オフから17年1月まで中日のGMを務めた。

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