レッズ秋山に「自分らしさ」望む打撃コーチ、根底にある自身の西武時代の経験

[ 2020年4月9日 06:35 ]

99年5月、オリックス戦の6回に右打席でタイムリーを放った西武のアラン・ジンター
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 【fromUSA プレスα】秋山翔吾外野手(31)が加入したレッズで今季から打撃コーチを務めるアラン・ジンター氏(51)は、昨年12月のウインターミーティングでGMや監督とともに面談に同席した。そこで現役時代に西武で松坂や松井稼(現2軍監督)と一緒にプレーした経験があるとアピールした。

 「西武球場の打席に立って、東尾監督のもとでプレーしていたと言うと、(秋山)翔吾が笑顔になって、場が打ち解けた」

 ジンター氏は99年、妻と一緒に成田空港に降り立った日のことを忘れないと言う。税関手続きを終え、歩いていくと、ガラスのむこうに大勢の人々が集まっている。夫人がテレビカメラに気づき「誰か有名な人が同じ便に乗っていたに違いない」と言った。エスカレーターを降りていくと、カメラのライトが一層明るくなり、人がもっと集まって来た。「なんと、みんなが待っていたのはこの私だった。からかわれているのかなと思った」。ジンター氏は西武の注目の新外人だった。

 当時、ジンター氏は30歳。カブスのキャンプで、最終週まで残り、結果はマイナー落ちだったが、メジャーでプレーする長年の夢を叶える一歩手前にいた。ところが4月、傘下3Aアイオワで、野茂とバッテリーを組んだ試合後、代理人から「日本でプレーしないか?」と連絡があった。年俸40万ドル(約約4400万円)プラス契約金10万ドル(約1100万円)の好条件。当時のメジャーの最低年俸の2倍で、傘下3Aでもらう予定の給料よりもはるかに良かった。

 「それまで日本のことは考えたことはなかったが、妻と話し合って、この機会に賭けてみようとなった」

 デビューは同年5月14日のオリックス戦(当時西武ドーム)。満塁本塁打を含む2安打5打点と大暴れした。その2日後、16日の同戦。有名なイチロー(現マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)対松坂の初対決の試合にも出場した。「球場は超満員だった。私は当時、イチローを知らなくて、“彼が日本で最高の選手なの?小さいね。本当?”などと言っていた。だが、打撃練習を見て、驚いた。ステロイド時代のホセ・カンセコやマーク・マグワイアよりもボールを遠くに飛ばしていたからね」。松坂についても「あれだけ球が速くて、変化球が多彩な投手は見たことがない」と驚いた。この日、イチローは松坂に3三振を喫したが、数週間後、本拠地で再戦すると、フェンス直撃の二塁打を2本。「すぐさまお返しした。やっぱり凄い打者だった」と舌を巻いた。

 ジンター氏は同年に西武で61試合に出場し、打率・202、8本塁打、28打点。期待に応えられなかった理由を、こう分析する。「ホームランを期待され、ホームランバッターになろうとしてしまった。私はパワーはあったけど、決して本塁打を量産するタイプではない」。その前年、3Aでの成績は打率・310、23本塁打、出塁率・416。ホームランバッターというより好打者タイプだった。「期待され、ついつい自分の能力以上のことをやろうとしてしまった。それが人間というものだけど、日本ではうまくいかなかった」。

 00年は米国に戻り、02年、04年はメジャーでプレー。現役最後の年は06年、アストロズ傘下3Aに在籍し、当時ロッキーズ傘下3Aにいた松井稼と再会し、旧交を温めた。

 「西武時代の(松井)稼頭央は今まで自分が一緒にプレーした多くの選手の中でも最高の野手の一人だった。しかしながらメッツでの彼は、彼らしさが全く出せていなかった。自分にプレッシャーをかけすぎていたし、別のプレーヤーになろうとしているように見えた。06年も同じ。いろいろとやりすぎて、彼の最も良い部分が見えなくなっていると私は感じた」。

 ジンター氏は松井稼や自身の経験から、今季メジャーデビューする秋山には、西武時代と同じように、彼らしくプレーしてもらいたいと心から願っている。

 「翔吾にもそこははっきりと伝えている。メジャーでも、彼が日本でやってきたことを続けて欲しい。そこについては全面的にサポートすると」

 春のキャンプは思っていた通りの過程を歩むことができた。ジンター・コーチはその点に手応えを感じている。(「ジ・アスレチック」レッズ担当トレント・ローズクランス=構成・奥田 秀樹)

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2020年4月9日のニュース