【内田雅也の追球】春風と野原、そして白球――正岡子規130年前の名句にある野球の原風景

[ 2020年4月7日 08:00 ]

晴天に映える甲子園の芝生(撮影・大森 寛明)
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 野球を愛した俳人・正岡子規が<春風や まりを投げたき 草の原>を詠んでから、ちょうど130年になる。

 随筆集『筆まかせ 抄』(岩波文庫)によると、1890(明治23)年4月7日、一高(今の東大)学生だった子規(当時22歳)は友人2人と本郷にあった松山出身者向けの寄宿舎「常盤会」を午前9時に出発、つくし狩りに出かけた。<天気快晴、一点の雲なし>という好天だった。

 板橋公園でつくしんぼを風呂敷に詰め、王子権現の川辺で山桜に見とれ、帰り道では急な雷雨で焼き芋屋に寄った。雨は上がり、日が差してきた。片町付近で植木屋が芝生を養生している広場を見かけた。<我ヽボール狂には忽(たちま)ちそれが目につきて、ここにてボールを打ちたらんにはと思へり>と詠んだのが冒頭の名句である。

 青い空に緑の芝、春風に吹かれ、自称「ボール狂」、つまり野球狂の血が騒いだのだろう。子規がどれほど野球好きだったかについては、あちこちでよく書かれている。

 結核で血を吐いてから書いた『喀血(かっけつ)始末』では地獄の法廷で喀血について裁かれる。判事の閻魔(えんま)大王から「何をやったのか」と問われ「ベースボールという遊技だけは通例の人間より好きで、餓鬼になってもやろうと思っています」と答える。さらに「地獄にもやはり広い場所はありますか」と逆質問している。

 伊集院静が子規の生涯を描いた小説『ノボさん』(講談社)では夏目漱石との友情が描かれている。英国留学中の漱石は子規の訃報を手紙で知った。ロンドンの下宿で亡き友をしので追悼句を作った。<きりぎりすの 昔を忍び 帰るべし>

 野球に夢中だった子規をキリギリスにたとえているのだろう。<子規よ、白球を追った草原に帰りたまえ、という友への哀切が伝わってくる>。

 もともと、野球と草原は切っても切れない関係にある。ベースボールを野球と訳した一高野球部の中馬庚(ちゅうま・かのえ)は原書の「Ball in the Field」から着想を得たという。野原の中の白球、これが野球の原風景である。中馬は子規の一高先輩にあたる。

 それまで、略して「ベース」や「打球鬼ごっこ」とも呼ばれていたベースボールは「野球」という名訳を得て、本来の、どこかのどかで、のびやかな感じがよく伝わったと言えるだろう。

 この日も朝から快晴の好天だった。子規同様に午前9時に自宅を出発、歩いて甲子園球場に出向いた。10時すぎ、グラウンドに出てみると、人っ子一人いなかった。

 外野の芝に近寄り、においをかいだ。地面すれすれに目線を下げると、広がる芝生は大いなる野原のようだった。青い空に陽光が輝く。ただ、白球だけがなかった。

 球場を出て、野球塔のそばで休んでいると、後ろから「バラパ、パラパラパー!」とカミナリのような大声が聞こえて驚いた。自転車に乗った野球帽の中学生3人組がピンクレディー『サウスポー』のイントロを口まねしていた。高校野球の応援で知ったのだろう。彼らもまた、野球のない春を寂しがっているのだ。

 新型コロナウイルス感染拡大の脅威は収まる気配がない。甲子園球場のある西宮市は6日、小中学校の学校再開を見送った。7日の始業式は実施するが、その後は休校措置を延長する。

 戦後、甲子園球場でセンバツが復活した1947(昭和22)年、俳人・田村木国(もっこく)は<甲子園原頭の春回る>と詠んだ。
 木国は1915(大正4)年に第1回大会を開いた夏の全国大会の創案者でもある。原頭とは野原をいう。戦争で5年間の中断を経て、甲子園に帰ってきた野球への喜びにあふれている。

 昔も今も、野原では白球が恋しくなる。特に今は。
 =敬称略=(編集委員)

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