いぶし銀・高木守道氏“瞬間湯沸かし器”の一面も…引退表明は王さんの翌日、突然だった

[ 2020年1月17日 21:55 ]

共に引退する「背番号1」高木(右)と王貞治は肩を組んでファンに別れを告げる
Photo By スポニチ

 「ミスタードラゴンズ」と呼ばれ、中日の監督も務めた高木守道氏が死去したことが分かった。心不全とみられる。78歳だった。

 高木氏は「ナゴヤの二塁に守道あり」と言われ、74年にはリードオフマンとして巨人を9連覇で止め、リーグ優勝。通算21年の選手生活で2274安打、236本塁打、369盗塁の成績を残した。

 “いぶし銀”と称された職人気質の高木氏が引退を決意したのは80年。同じ背番号1で1年先輩の王が「王貞治としてのバッティングができなくなった」と、ユニホームを脱ぐことを表明してから一夜明けた11月5日だった。その日の練習後に球団の代表に「来年のことを話したい」と連絡し引退意思を示した。「王さんの引退で、僕がセ・リーグ現役選手の最年長になった。最年長にはそれなりのプレーが要求される。今の僕にはそれに耐えられる気力、体力も自信がない」と決めたと語っている。

 引退後にはコーチ、二軍監督を務め、86年には山内一弘監督の途中休養を受け代理監督に。92年に星野仙一の監督の後任として監督に就任したが60勝70敗の最下位に終わる。95年まで監督を務めるも93年、94年の2位が最高。巨人と最終戦(ナゴヤ)決戦となった伝説の94年「10・8」でも指揮を執った。また、16年のブランクを経て落合監督の後を受けて12年から2年間監督を務めるが優勝はならず。13年は「ジョイナス、ファンと共に」をスローガンに戦ったが、12年ぶりのBクラスとなる4位に終わった。

 現役時代は堅実なプレーで知られてはいるが、監督時代には頑固な一面も垣間見せ「瞬間湯沸かし器」とも評された。当日限りでの辞任が発表された95年6月2日阪神戦で、久慈(阪神)の一塁線の当たりの判定をめぐり激高。塁審の胸を小突き、指揮最後の日に退場となった。ファンのヤジに反論したこともあり、また、13年5月4日の交流戦・日本ハム戦では、中継プレーをめぐりベンチで井端選手と衝突。井端選手が不服そうに帽子を脱ぎ捨てベンチ裏に消えると、それを追い掛け、数人の選手がが慌てて止めに向かう光景がテレビに映し出されたこともあった。

続きを表示

この記事のフォト

2020年1月17日のニュース