【内田雅也の追球】「あきらめ」と希望――逆転に見えた阪神の「勝利と育成」

[ 2019年8月12日 08:00 ]

セ・リーグ   阪神6-5広島 ( 2019年8月11日    京セラD )

8回無死一、二塁、一走・ソラーテは大山の2点適時二塁打で生還する(撮影・坂田 高浩)
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 阪神はいま「あきらめ」と背中合わせの日々を送っている。

 一つは、優勝はもちろん、クライマックスシリーズ(CS)進出の3位までも断念せざるを得ないという意味だ。

 数字的な絶望が迫る。過去、CS逆転進出の最大ゲーム差は6で、9日には一度、6・5差と開き、デッドラインを越えていた。

 もう一つは「あきらめ」本来の意味だ。禅僧・南直哉(じきさい)が著書『なぜこんなに生きにくいのか』(新潮文庫)で<あきらめるとは「明らかに見る」こと>と記している。元は仏教用語で「明(あき)らめる」と書き、「明らかに見る」「明らかにする」との意味だそうだ。

 ネガティブな意味ではない。<目標を追求することも大事ですが、ある時点で「断念する」ことを知らないといけない><それは絶望とは違う。いまの自分の力とその目標との距離を計る――>。

 上位との彼我の差を知り、希望の明日に向かうのである。来季に向けての若手登用も視野に入れながら戦うわけである。

 そんな瀬戸際で迎えた広島戦だった。1―5と4点差がついたときは、二重の意味で「あきらめ」を思って見ていた。

 しかし、恐れ入った。後半の反撃、特に8回裏の逆転劇には「あきらめ」など全く心にないという姿勢を見せられた。

 3点を追ったあの回、両外国人連打の後、中越えに2点二塁打した大山悠輔には「4番」としての誇りが垣間見えた。前夜から6番に落ちたが、それまで105試合を4番で苦しんだ日々が糧となっていたのだろう。

 糸原健斗の同点打が中前に落ちたのは、以前に何度か書いたように「テキサスヒットは闘志、努力の安打」「人格的ヒット」を意味してはいないか。主将として苦しんできた日々を思う。

 1死三塁で代走に出た植田海が遊ゴロで決勝の生還を果たした好走には震えた。あの、6月5日ロッテ戦(ZOZO)で9回表、同じ代走の1死三塁で左飛に帰塁できず、併殺を食った。同じ「当たりゴー」の指示を出し、あの日の悔恨を晴らしたのだ。

 監督・矢野燿大にとって、信頼と辛抱を続けた4番・大山と代走・植田は失敗や悔恨と闘いながら、確かに育っていたのである。これを育成と勝利の両立という。

 それはつまり「あきらめ」ながら、上位との力量差を詰めようとする、希望ある姿勢ではないだろうか。=敬称略=(編集委員)

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